バス次郎の死



1998年2月8日11時にバス次郎が死去しました。

「バス次郎の肌荒れが治らない!」いつもならこんな症状が出始めたら水換えをしてやれば次の日にはすっかり治ってしまうのに・・。それが今回は違いました。3日おきに2回、水換えをしたけれども症状は改善されないばかりか、ヒレの周りが少し赤みをおびてきてしまいました。弱って浮いてきている管理釣り場のマスや産卵のために遡上してきたサケのようです。このような状況をアユの世界では「錆びる」と言うらしいですが、バス次郎が日に日に錆びていくのです。もう一週間もエサを口にしていません。口の中を見ると少し赤く、出血しているのかもしれません。

週末になって、なじみの熱帯魚屋に相談してみたところ、「おそらくpHの低下ではないか?」と言うことで「濾過槽全体の掃除とサンゴのくずを濾過槽に加えること、そして病気が出ているのなら薬浴をさせるといい」とアドバイスされました。指示通りに清掃を済ませた、次の日は盛り返したように見えました。「どうか治ってくれ」祈るような気持ちでした。しかし、2月8日、帰宅してみると頭を下にして虫の息でした。魚が死んでいく姿というのは見るに耐えないものがあります。泳げなくなり流れるままに流されて・・。そして、11時ちょうどに私の目の前で彼のエラは動かなくなりました。

思い返せば、100 g 足らずのバス次郎を買ってきてから6年、彼は45.1 cm, 1550 gの立派なバスになっていました。彼を庭に埋葬する際にリッピングをしたとき改めてそれを感じました。そんなバス次郎には、私が釣り上げてきたどんなラージよりも威厳がありました。そして、優しそうな目をしていました。できれば、土ではなく水に、そして死んでからではなく生きているうちに返してあげたかったのですが、彼は熱帯魚屋出身、生態系を乱すわけにはいきませんでした。

「バス次郎には90 cm水槽は狭すぎた。」「もっと早く手を打っていれば。」「薬浴は失敗だった。」といくつもの後悔が私をおそいました。しかし、今となってはどうしようもありません。アメリカの天然湖での調査によれば、10年生きた雌のバスがいたらしいです。それが限界とすれば、バス次郎は還暦に相当したことになります。遅かれ早かれ、そのときは迫っていたのでしょう。



再び彼との思い出がわき上がってきました。バスの生態を観察するために買ってきたバス次郎でしたが、なついてしまい半ばペット状態でした。しかし、そんなバス次郎でも「記憶力の良さ」「捕食のパターン」「水温の違いによる行動パターンの違い」など一緒に暮らしてみなければ解らないことを教えてくれました。今思えば、Kiyo's Worldをはじめた頃が彼にとって一番の時期だったのかもしれません。私も彼の仕草から連想したセリフを彼に与え「ゴンタくんとのっぽさん」のような不思議な関係を楽しんでいましたた。でも、もうそれも終わりです。彼に最後のセリフを与えなければなりません。

「残念ですが、僕の最後のセリフになってしまいました。僕らは水の中で暮らしています。その水が汚れてしまうとすぐに体の調子が悪くなってしまうのです。今、僕の仲間たちの住む大自然でさえも汚れてきてしまっているのです。僕はもういなくなってしまいますが、どうか僕の仲間たちのために、そしてその仲間たちとみなさんが釣りを続けていくためにも自然の川や湖を汚さないで下さい、ごみを捨てていかないで下さい。それさえ出来れば、私の6年間はすばらしいものだったと思います。では、Kiyoさんさようなら。そして、インターネットを通じて出会うことの出来たみなさん、さようなら。」

バス次郎より。


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