飛行機を見ていた。
蒸気機関も霊子技術も使用していない、
旧世代のプロペラ飛行機。
これは何時の頃の思い出なのか、
それすらも憶えていない。
多分、あの炎の夜と同じ位昔の事だったと思う。
「………」
少女はその飛行機の側にチョコンと座っていて、
誰もいない操縦席を見上げていた。
これが紅蘭が最初に見た飛行機。
更に遠い記憶、この重たい鉄の塊が人に手紙を届ける目的で飛んでいた。
悠然と晴天を飛ぶ様は、それまで、
光などの明るい発光が嫌いだった李紅蘭にとって、
科学者になるべき方向を定めた光景だったと言っても過言ではない。
そして、空白の意識は遠のいていく。
あの最悪の夜、『辛亥革命』の戦火となった故郷の夜へと。
…………………………………
燃える街。
紅蘭の街だった。
半壊した建物に火が燃え盛り、
崩れた家には行き場を無くした大気が渦巻いている。
この大通りにあったはずの大木は皆燃えてしまい、
今では崩れた大樹が炭となって燻っていた。
清朝で起こった辛亥革命は、
この北京にも戦火を被せた。
北京郊外は文字通り火の海になっていたのである。
「………ヤオニィク…ツォヨォ…(早く…助けを呼ばないと)」
つぶやく紅蘭。
脳は熱くて、意識が何度も消えてしまいそうになる。
紅蘭はその火の街をさまよっていた。
熱気に煽られた炎を、
半開きの瞳の紅蘭は小さくかわして一歩踏み出す。
負傷した右腕を押さえ、歩く少女。
ぼろぼろの靴の裏は地面の熱で溶け、
足の裏は感覚が麻痺している。
先ほど倒れてきた建物の破片が膝に当たり、
あまりの痛さに、引きずりながら歩いている。
かすむ脳裏には、幼い頃に見た飛行機が映っていた。
アレがあれば空を飛んでこの炎の海から逃げ出せるなどと考えていた。
だが、今は熱風の北京。
こんな場所に都合よく飛行機が止めてあるはずもない。
紅蘭の目の前を、浮遊する灰。
異常な暑さで目がかすむ。
周囲に人の気配は無く、両親もいない。
火傷を負っている両足は、
思った以上に重く、思い通りには動いてくれない。
頭に降りかかった小石を払おうともせず、
紅蘭は街の大通りを歩いていた。
それ以外の知ってる道は、もう全て火の中である。
その時、近くに倒れていた大樹の炭が、
パチンと火花を弾いた。
それに紅蘭はたじろいで、一歩下がる。
しかし、それでも意思を確かに持って、
前へと進む紅蘭。
もう、自分がなぜそうしているのかも解らなくなるくらい、
意識は不確かだった。
周囲には熱気と炎が更なる熱を渦巻いている。
絶望の夜は終わらない。
恐ろしい記憶だった。
「……………」
無言の紅蘭。
深夜、誰もいなくなった花やしき施設内の、
支部長室の机の上で気を取り戻す。
ぼんやりと意識が現実に戻り、
目の前には机の上に大きく広げられた設計図と、
乱雑に文具が投げ出されている。
図面には『光武・改』と書かれていた。
整理整頓できないのは紅蘭の悪い癖だ。
しかし、今はそんな事は気にしない。
紅蘭はそんな机の上でうつぶせていた。
目の前には蝋燭の火が揺れている。
彼女は『光武・改』の改良に行き詰まっていた。
霊子学の開祖、山崎真之介の光武を基に始まった、
"紅蘭の手による光武"造りだったが、
やはり思うように簡単にはいかない。
やがて、紅蘭は机の上にあった蝋燭に火を灯し、
それを明かりとして設計図に手をくわえていたのだが、
ぼーっとしている内に、その火を見ていたようだ。
「……あかんな。まだ、うちは弱い…」
小さく、低い口調でつぶやく紅蘭。
今も、蝋燭の火は小さいながらも灯っている。
どうやらこれを見ている内に、
薄れかけていた恐怖体験が思い出されてしまったようだ。
以前のように、夢に対しての精神的な拒絶反応はなくなったが、
そこは幼少の記憶。
一度、偏頭痛のような存在になってしまうと、
中々立ち直れない。
帝国華撃団の銀座支部にもあった自室で、
以前にも同じような夢を何度か見た。
その度に、恐くて、震えて、
毛布に隠れて泣いていた気がする。
そして今は、
こうして作業に集中する紅蘭にも襲いかかってくる。
本当に恐ろしい記憶だ。
「………急がんと…」
少し、眠い紅蘭。
浅い夢を見ていた事に今更気付く。
目の前には、まだまだ作業が終わっていない図面が広がっている。
寝ぼけ気味で左手を動かしてしまい、
案の定、机の上の鉛筆やら定規やらを雪崩れ落としてしまう。
『あーあー』と、何とも間延びした声をあげて、
紅蘭はその文具を拾い上げた。
少し、滑稽な光景だったが、
彼女の過去をその片鱗でも知っていれば、
笑いを慎むべき様である。
────────────────────────…………………………………
深夜の第二整備工場。
暗くて、巨人達の影部が恐ろしい。
今朝、全光武はこの工場に移動され、、
ここで光武の改良が行われる事になっていた。
光武・改の製造が、
これからはここで行われるという事である。
光武・改の全指揮を担っている支部長、李紅蘭の意向である。
作業工程がついに紙面から手作業に代わってきたという事だ。
彼女の指示どおり、
七体の光武はしっかりと運搬されていた。
作業時間はとうの昔に過ぎていて、
照明も落ちている。
しかし、本来は二十以上ある照明をわずか二つだけ点灯させて、
作業にあたる者がいた。
支部長、李紅蘭。
彼女は支部長という責任ある立場故に、
直接光武に触れない事が嫌だった。
だから、作業時間外によく勝手に光武を触る事が多い。
ただ、紅蘭が作業した結果は全て、帳簿に明記しておくので、
次の作業員達も仕事がはかどる。
そういう理由で、
この"李紅蘭の暴走"を止める者はいなかった。
「………」
無言の紅蘭。
彼女はまた茫然としていた。
目の前にはとある理由から、
小さな火の柱が灯されている。
機械製造に使用する部品として、
熱を加える事により、形を変形させる金属がある。
特に、細かい構造が多い光武製造には、
それらの特殊金属の多用が不可欠である。
その金属の一部分的に熱を加えるため、
工場には小型ボイラーが完備されていた。
「………」
小さく灯った炎。
ボイラー先端に整えられた、筋のある小奇麗な火。
空調施設が稼動しているこの部屋で、
人工的である火は一切揺れが生じない。
冷たく平たい作業机の上で、
李紅蘭はその火をぼんやりと見つめていた。
最近、どうも眠い。
支部長として緊張した毎日を送っているからだろうか。
いや、多分、最近あの夢ばかり見てしまい、寝つきが悪いからだろう。
人に頼られるのは慣れているつもりだから。
紅蘭は、炎に映る小さな自分に言い聞かせる。
「眠いのかい。支部長」
「……?」
不意に聞こえてきた低い声。
李紅蘭は気付き、
身を起こす。
ぶんぶんと頭を振って、紅蘭は周囲を見渡した。
すると、すぐに彼の存在に気付いた。
背後に立つ、黒髭を生やした中年の男。
この花やしきでも最年長に属する構成員だ。
名前は大久保拓道。
先日、第二研究部の主察管理人を怒鳴りつけていた通信局長である。
李紅蘭はばたばたと起き上がり、しっかりと座った。
例え、役職的には下であっても、
年齢的に上の立場である大久保局長は、敬意を払うべき相手である。
李紅蘭はそう思っていた。
「……い、いえ!
そんな事ありまへんッ!」
紅蘭は背筋を伸ばして、
先ほどの問いに答えた。
すると、花やしき支部の最古構成員、
大久保拓道は小さくうなずく。
彼は、普段は至って優しい、"ないすみどる"である。
それなのに、城田がどうしても見逃せない行動ばかりしてみせるから、
彼も拳を振り上げ、怒号しなくてはならないという。
しかし、それは彼自身の意見。
通信局員としては優秀な管野日真和にも、
『いい人だが、口うるさい』という烙印を押されているのが現状。
要するに、短気な大人なのである。
彼は、年上だという親心から、
一人で作業に明け暮れている李紅蘭の手伝いに来ていた。
まるで寝込みを襲うような呼びかけ方だったが、
紅蘭も大久保も、お互いの存在は知っていた。
大久保もわりと茶目っ気が強い。
一般には、草木も眠るとされている丑満つ刻。
少女一人が残るには、
花やしきの工場は物騒過ぎるというわけだ。
ちなみに、城田貫吉は『管野日真和に不快な思いをさせた』罪として、
一晩中、買い物に付き合わされている。
行きたくもない銀座に駆り出されていた。
「……全く、負けん気の強いお嬢さんだ」
大久保は感慨深くそう言うと、
紅蘭のいる作業机とは少し離れた壁際の椅子に座った。
彼は巨躯の男である。
そんな彼の背丈に合う椅子は、通信局第一通達室にある特注品しかない。
大久保の言葉に、なんだか複雑そうな表情の紅蘭は、
黒鉛筆を手にして、頭をかきあげた。
目の前の図面は空白の場所が多い。
山崎真之介の理論そのままで、何も改良されていない点ばかりだ。
「……うーん。あかん。
何も浮かばへん!」
彼女はそう言って、
脱力するままにうなだれた。
汎用性を高く持ち、
それでいて全体的能力を上げるという作業は、
実は本当に難しい事だ。
何せ、一度確立された理論を覆し、
尚且つ新しい理論で完成しなくてはならない。
この光武改良はある種、李紅蘭の戦いでもあった。
天才的霊子技術に取り組んだ先人への挑みと言っても過言ではない。
"光武を新しい技術によって生まれ変えさせる"
これは『神武』の破損が激しく、
修復不可能と判断される以前から、心に決めていた事だった。
天才・山崎真之介の気が触れた果ての姿が、破戒者・葵叉丹の正体だと知った時、
彼の過ちも含めて、李紅蘭は霊子技術を見直す意思を固めた。
あの日、帝都を思い、図面と対峙していた山崎真之介。
これは後から米田指令に聞いた事だが、
陸軍対降魔部隊にいた時の彼は、
実践戦闘よりも光武の開発に集中していたという。
それは紛れも無く、今の李紅蘭と同じ。
いや、今の機械整備士達全てと同じ。
だから、彼が過ちを起こす前の粛然たる思いを、
今、形にしたかった。
「………ふぅ」
李紅蘭は天を仰いで、大きくため息をつく。
背後の遠くに並ぶ、七体の光武。
大久保はその紅蘭の姿を見て、
これからの帝都の行く末を案じていた。
とても良い方向で。
安堵した大久保はにやける。
長時間作業を続けている支部長、
李紅蘭に何か声をかけずにはいられない。
大久保は髭をさすり、
大きく口を開いた。
「君は、城田貫吉とはどういう関係だったのかね」
「……ッ!!」
虚空に響く、大久保の意味深い発言。
紅蘭は肘を着いていた右肘を滑らし、
大きく額から図面に激突する。
静かなこの工場に、
紅蘭の頭が机に激突した撃音が響いた。
この沈黙の状況で、
集中するべき状況で、
突然、何を言うのか中年局長。
少し毒づいて、紅蘭は正直、そう思ってしまう。
顔面を作業机の表にぶつけた所為か、
顔が赤い李紅蘭は、疑り深いジト目で大久保を見る。
「……一体、何々です?大久保はん」
すると、大久保は再び笑っていた。
紅蘭の反応が、とても子供地味ていて、
若者だと再認識する。
「はっは!労働時間およそ二十時間。
それでも残業の四時間を趣味だと言って放つ支部長殿とは、
どれ程の者なのかと心配していたよ」
大久保は、必死で頭を悩ませる紅蘭を笑っていた。
一言で笑っていたといっても、
下賎に見ていたわけでも、蔑すんでいたわけでもない。
若者の力というのは何時の世も、
年寄りを降伏させる。
しかし、それは大体が幸福な降伏だった。
帝都の昔を知る男、
大久保拓道も例に漏れない。
先の大戦の英雄、李紅蘭が上司になってからおよそ一ヶ月。
大久保は李紅蘭の事をずっと見ていた。
実に誠天晴れな女性である。
与えられた仕事は何でもこなし、
与える仕事は何でも成功する。
信じられない睡眠時間で活動し、
天才的技術を手にしているにも関わらず、
今もこうして机の前で頭をひねっていた。
よもや、彼女の知識を持ってして、
再現不可能な事象は無いだろう。
だが、それは逆に恐ろしい事でもある。
人の成長には常に代償がつきまとう。
確かな例でいえば、葵叉丹や天界僧正が正にそれだ。
人の心を失って、人でありながら人で無くなって、
手にした者は破戒の力。
大久保は生きてきた五十年間で、
そういった類の人間を多く見ている。
葵叉丹や天界僧正だけじゃない。
淡々と力を欲する陸軍。
己の信仰力をつける為に、
他国から一切の情報を断った鎖国。
日本国帝都の過去五十年は実に暗い。
過去には大久保自身が殺伐としていた時代もある。
だが、大久保は笑っていた。
怪物的天才の少女が、
ほんの些細な冷やかしで、
頬を赤くしてたじろいでいる。
「くく……。
どうやら、ただならぬ関係のようだな」
くだらない冗談を漏らしながら、つぶやく大久保。
その時、紅蘭は中年の戯言なのかと疑っていた。
「……やめてくれまへん?まったくもう」
この大久保局長が城田と気が合っていて、良い同僚関係にある事は知っている。
そんな簡単なからかいなのだと紅蘭は思っていた。
しかし、大久保のふざけた大きな笑いは、
やがて真剣な笑みへと移り変わる。
それは極自然な変化だった。
さすがの紅蘭も異変に気付くだけだ。
紅蘭はあどけない表情で、
大久保を見る。
両手はこぶだらけで、
実年齢よりも皺が多い。
もしかしたら、陸軍に在籍していた頃の苦労なのかもしれない。
粋ににやける大久保は、
眼の下に隈を造りながらも、
"帝都を守る作業"を続ける天才に向かって言った。
「……これからの未来は、
君達、若者のモノのようだな」
何とも重々しい言葉。
静かな工場内に響く。
目を細める李紅蘭。
「……ハッ!」
大久保は恥ずかしい自分の発言を小さく笑い飛ばすと、
椅子から立ち上がり、工場を後にする。
去り際に、紅蘭の両肩に己の来ていた上着を投げつけて、
大久保は扉を股いで姿を消した。
「………」
その後姿を見ていた紅蘭。
先人たる大久保が今、
何を言いたかったのかも理解できない程、
愚かでもない。
「……全く、昔の人はなんで素直に言えないんや」
まるで、ぼやくような発言を、
恥ずかしそうな口調で言う紅蘭。
投げつけられた上着の両腕の部分を握り、
胸元で結ぶ。
そして、再びペンを進めた。
今は頭がすっきりしている。
紅蘭の過去を見れば、もう本当にうんざりするくらいだが、
全ての過去が同じでは無いらしい。
先人たる大久保。
年老いた彼の存在は、
過去の記憶に悩まされる紅蘭を和らげる『教え』になっていた。
今なら、ぼんやりしていても、
炎の記憶は戻ってこなそうである。
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