新たなつばさ

新たなつばさ
著・orchid
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「おい、紅蘭、もう食わないのか?」
 カンナは先ほどからスパゲティをフォークにからめたまま考え込んでいる紅蘭に声をかけた。
 舞台の練習も終えて心地よい疲れと共に団員は食堂で夕食に舌鼓を打っている。
 今日の献立は織姫のたっての希望でイタリア風のボンゴレビアンコ、深川で取れた新鮮な
 アサリと白ワインで仕上げた帝劇大食堂シェフ苦心の作である。
 紅蘭はぎこちなく微笑んだ。
 「うん、ちょっと食欲ないねん、よかったらカンナはん食べて」
 「お、悪いなあ〜、でも残しちゃ食堂のおっちゃんに悪いしなあ〜、俺が片してやるよ〜」
 「カンナさん、食べ過ぎじゃありませんこと?」
 ここぞとばかりにすみれがちくりと嫌みをいう。
 「何だと〜、おめぇだってばくばく食ってんじゃねえか〜」
 「あなたみたいな大食漢と一緒にしないでちょうだい」
 「何だと〜」
 いつものように言い争って立ち上がる二人。
 「また喧嘩してるねえ、二人とも」
 アイリスがあきれたように言うと
 「食後の運動は消化にいい」
 レニはそう言うと食べ終えたアサリの殻をフォークで器用に殻入れ用のボールにザラッと
 流し入れた。
 「二人とも、静かになさい!食事中にみっともない!」
 マリアの一喝で座が静まるのもいつものことで・・・
 だがいつもの陽気な紅蘭の合いの手が今夜は入らなかった。
 「ごめん、うち、先に失礼するわ」
 ガタッとイスを引いて立ち上がる紅蘭を皆は声もなく見送った。
 「紅蘭、イタリア料理あんまり好きでないのデスカ〜?」
 織姫はメニューを決めたのが自分であるせいか気になっているようだ。
 「どうしたんでしょうねえ、お稽古もあまり元気なかったようだし」
 さくらの言葉に
 「まったく紅蘭らしくないよな〜、調子狂うぜ」
 カンナもうなづくと残りのスパゲッティを音を立てて豪快にすすりこんだ。
 「やっぱりうめえなあぁ!このボンゴレビ・アンコってのは!」
 誉められて悪い気はしなかったが、織姫はきっちりと教育を入れた。
 「カンナさん、ボンゴレ・ビアンコデ〜ス」
 「ふん、ちょっと新しい言葉を覚えたくらいで知ったかぶりするからこのザマですわ」
 「なんだと〜、もういっぺん言ってみろ〜!」
 またもや始まる二人の舌戦を聞き流しながら、マリアは紅蘭の後ろ姿を気遣わしげに見送
 った。
 確かに紅蘭の様子はおかしい。
 稽古では何でもない台詞をとちる、戦いが終わってもかかさなかった霊子甲冑の整備もし
 ていないようだし、
 第一いつも花組を盛り上げ雰囲気を和やかにしてくれる明るさがこの数日の紅蘭には欠け
 ていた。
 「確かに変ね、隊長が戻られたら相談してみるわ」


◇◇◇◇◇◇
 部屋に戻った紅蘭はばさっとベットに倒れた。  「調子でえへんなぁ・・・・」  机の上に置いている制作途中の発明品も触る気がしない。  (やってもうたなあ〜)  今度は体をぐるんと仰向けにすると大きくため息をついた。  考えまいとしても先週の日曜日の事が頭から離れない。  (大神はん、うちのこと、何とも思てないんかなあ?)  あの日以来、大神の忙しさにかこつけて何かと理由をつけて顔を合わせていない。  大神のことだ、紅蘭の方から屈託なく振る舞えば、いつものように優しく接してくれるこ  とはわかっていた。  なのにその簡単なことが今の紅蘭には途方もなく難しいことに思えた。  明るさと屈託のなさがうちの身上やのに?  (あかん、ドツボや・・・)  彼女はやわらかいベッドに顔を押し当てた。
◇◇◇◇◇◇
 「紅蘭、ちょっといいかな?」  大神が紅蘭の部屋を訪ねてきたのは巴里留学の決まった数日後のことだった。  巴里留学が決まって以来、華撃団の今後の引き継ぎ、海軍での連日連夜の打ち合わせが重  なって大神は目の回るような忙しさのようだった。  そのせいで思うように大神と会えなくなっていただけに、この深夜の訪問に紅蘭の心はと  きめいた。  「何でっしゃろ?大神はん」  嬉しいくせに素っ気ない態度を取ってしまい、  (しもた〜)  と心の中で舌を出す。  そんな紅蘭の心の動きを知ってか知らずか  「巴里に行くまでにいろいろ準備しなくちゃいけなくて、思うように時間が取れないんだ   けど・・・」  大神は紅蘭の好きな少年めいたためらいを見せつつ、  「明後日の日曜に君の紅豚号に乗せてくれないかなあ」  と打ち明け話をするように言った。  紅豚号とは紅蘭の発明した蒸気併用霊子エンジンを搭載した複葉機である。以前大神と二  人で中国まで飛行した思いでのある愛機だ。  相次ぐ降魔との戦いで再度の飛行はなかなか果たせず、花やしき支部のハンガーに大切に  しまわれている。  「そりゃ、おやすいご用やけど、また急にどうして?」  「実家に少しでいいから帰りたいんだ」  (ああ、なるほどなぁ)  そういえば、大神は1年以上郷里に帰っていないはずである。  そして今度は急に洋行することになり、その準備に奔走している。とても里帰りしている  暇はなさそうだった。  しかし紅豚号なら半日もあれば行って帰ってこれる。  どうやら大神はその半日を何とかやりくりしてひねりだしたようだった。  「君の飛行機ならあっという間だろうしね!頼むよ」  「よっしゃ!うちにまかせとき!」  もちろん否が応もない。紅蘭は快諾した。  「半日とはいえ紅蘭とも一緒にいれるし一石二鳥だな」  ほっとしたように大神は軽口をたたく。  「実は里帰りはダシで実はうちと一緒にいたいんちゃう?」  紅蘭も軽口で返す。  「うん、それもあるよ、それにうちの両親にも紅蘭を紹介したいし・・・」  (ドキ)  (大神はん、それってもしかして)  「もう、大神はん、からかわんといてや〜!」  「ごめんごめん、じゃあ日曜日にお願いするよ」  「うん、了解やで〜、大船に乗った気でまかしとき〜」  大神が出て行った後後ろ手でドアをバタンと閉めると紅蘭は大きくため息をついた。  ちょっと恋愛めいた話になるとどちらともなく韜晦してしまう。いつの頃からだろう。  大神が自分を大切にしてくれていることは知っている。  (でも・・・)  このままでは仲のいい二人のまま終わってしまうのではないか・・・。  本当に大神は自分を女性として必要としてくれているのか・・・?  何か確かな安心が欲しかった。彼が遠くに行ってしまう前に。  それだけにさっきの  「うちの両親にも紹介したいし・・・」  という大神の言葉に紅蘭は痺れた。  「大神はん、いいんか?うち本気にするで〜」  紅蘭は机に飛びつくと紙と鉛筆を取り出して早速飛行計画を練りはじめた。
◇◇◇◇◇◇
 「・・・というわけなんです」  夜遅く、海軍省での打ち合わせを終えて戻ってきた大神にマリアは紅蘭の様子を伝えた。  「ん、俺も気づいていたよ、紅蘭の様子がおかしいことは」  大神は予想に反して驚きを見せなかった。  遊戯室で二人はウオッカを傾けている。大神に何か相談があるときはマリアはよく好んで  遊戯室を使用した。  大神はマリアに目を合わさずに窓の外を見ている。  マリアのカンは紅蘭の不調は大神がらみであることを伝えていた。  ここは単刀直入に聞いてみよう。  「紅蘭と何があったんですか、隊長?」
◇◇◇◇◇◇
 (ご両親にゆっくりと会ってもらって心おきなく巴里に行ってもらお!)  早速次の日の空き時間に紅豚号を整備し、郊外の飛行場に予約を入れ、機を搬入してもら  う手はずを整える。  大神の体が空く昼に出発しても陽の落ちる頃には戻ってこれると飛行プランも完全に算出  済みである。  (俺の嫁さんになる人だよとか紹介されたらどないしよ〜)  胸の奥に暖かいお湯があふれてくるようで、思わず鼻歌が出てしまう。  「はよっ日曜日になれへんっかな〜♪」  やっぱり大神はんもうちのこと考えててくれたんやわ〜。  大神はんが巴里に行っても安心してこれで待つことができる!  「これで何も問題なしやわ〜♪」  何も問題はなかった、なかったはずなのに・・・  二人を乗せた紅豚号は空に舞い上がらずに飛行場の柵に激突、蒸気併用霊子エンジンはお  しゃかになった。  原因はいろいろ考えられた。紅蘭と大神の霊子共鳴による出力の増加にフレームが耐えれ  なかった、武蔵浮上による都市エネルギーの影響力を考慮に入れていなかった等々・・・。  しかしそれは後から言える事であって、事故の瞬間紅蘭の目は信じられないものを見たか  のように見開かれていた。  「紅蘭!大丈夫か!」  大神は紅蘭を抱えて紅豚号から飛び降りた。幸い二人とも怪我は無いようだ。  燃える紅豚号を前に二人は声もなく立ちつくした。  飛行場の整備員が火を消し止め、残骸を回収し終えた頃、やっと紅蘭は口を開いた。  「か、かんにんな、大神はん・・・、こないな事になるやなんて」  「紅蘭、自分を責めるな、無理を言った俺も悪かった」  「無理やなんてそないなことあらへん、うちのミスや」  「とにかく怪我がなくて本当に良かったよ、紅蘭の大切な飛行機が潰れたのは悲しいけ   ど・・・」  「紅豚号はまた作ったらええけど、大神はんの実家に帰られへんようになってしもた・・・」  今からではとても代替機など手配できない。  (せっかくの大神はんの帰省を台無しにしてもうた・・・)  大神は打ちのめされる紅蘭の肩を抱いた。  「郷里なんていつでも帰れるさ、そんなに深刻に考えることないよ」  大神は紅蘭を慰めるためにそのようなことを口にしたのだろう。しかしその言葉は今の  紅蘭には逆効果だった。  「いいんだ、大したことじゃない、帰らなくてもいいさ、紅蘭」  (ズキ)  (うちをご両親に紹介するのが大したことじゃないん?)   その言葉が心の平衡を失っている紅蘭を揺さぶった。  (うちと一緒に過ごせたはずの時間も大したことじゃないん?)   紅蘭はそのまま黙ってハンガーの方に歩き出した。大神の声も風の音も何も聞こえなかった。  
◇◇◇◇◇◇
 「そうだったんですか、それで紅蘭、隊長に気を使って・・・」  マリアはうなづいた。  「それは紅蘭、ショックだったでしょうね」  「でも、それだけじゃないように思うんだ」  大神は下を向いたまましばらく黙っていたが、意を決したように喋りだした。  「言いにくいんだけど」  「はい」  「紅蘭に・・・両親に紹介するって言ってたんだ」  いつもは謹厳実直なマリアが思わずウォッカを吹き出してしまった。  「す、すいません、でも、隊長、それって・・・」  (何でそんなこと私に話すんですか・・・?)  「何だか恥ずかしいから紅蘭には軽く言ってみたんだけど」  大神は紅蘭の部屋の模様をマリアに話した。  「・・・という感じだったんだ」  「隊長」  マリアの目は怒っていた。  「あなたは無神経すぎます」  「え・・・?」  (この人は何でこうなんだろう)  マリアはため息をついた。花組のみんなを束ねる将才はあるくせに、男女の機微にはてん  でうとい。 「両親を紹介されるというのは女の子にとっては一大事なんですよ!」  「いや、それはわかるけど・・・」  「わかってません!」  マリアはテーブルにグラスを叩きつけた。  「隊長のご両親にお会いすることを紅蘭がどんなに楽しみにしていたか隊長にはおわか  りですか?」  「ああ、でもあの時はああでも言うしかなかったんだ!」  大神の気持は手に取るようにわかる。しかしなおマリアは追求の手をゆるめない。  「でもあなたはその一大事を事故の直後とはいえ大したことないとおっしゃったのですよ!」  大神は面食らっていた。いくら酒が入ってるとはいえここまでマリアが激するのは珍しい。  しばらくして大神は腑に落ちた顔になった。  「・・・、あ、そうか・・・」  「紅蘭はそれで2重に傷ついたのだと思います。自分のミスで帰郷が駄目になったこと、  隊長が自分と過ごせる時間を大したことないとおっしゃったこと」  「・・・・」  マリアは大神の目をのぞき込んだ。  「紅蘭はあなたにとって大したことはないのですか?」  「そ、そんなことはない!」  「じゃあ、その気持ちを巴里に行く前にはっきり形になさい!黙ってても想いは伝わるな  んて幻想は通用しませんよ!」  大神はこくりとうなずいた。  「わかった、一晩考えてみるよ」
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 大神が出ていった後もマリアは席を立とうとしなかった。  必要以上に激してしまった。  自分の本当の気持・・・。  (はっきり形にしていないのは私の方だわ・・・)  ドアがゆっくりと開く音がした。  (もしかして、隊長?)  「よう、マリア、まだ寝ないのか」  ふらりと気配を感じさせずにカンナが遊戯室に入ってきていた。  「カ・カンナ、まだ寝てなかったの?」  「何か寝付けないからブラブラしてたら声が聞こえるからよ」  「聞いてたの!」  「わりぃ、立ち聞きするつもりはなかったんだ」  カンナはさっきまで大神の座っていた椅子に腰掛けた。  「でもさ、マリアも損な性分だなあ、好きな男に他の女の相談持ちかけられるなんて」  「いいのよ、私はどうだって」  マリアはロケットをぎゅっと握りしめた。  「隊長が幸せになってくれれば私はそれでいいの」  うつむくマリアに共感を込めた眼差しを注ぐとカンナは大神の残していったグラスにウォ  ッカをたっぷり注いだ。  一気にあおる。  「クゥ〜!効くねえ!」  空になったグラスはマリアによって満たされた。  そうして二人は無言でウオッカを傾けた。  時計の針が時を刻む音がやけに大きく感じる。  カンナがぽつりと口を開いた。  「あたいさ」  「ええ」  「隊長が巴里に行くと決まって正直ほっとしたんだ」  「ほっとした?」  「最近な、隊長と紅蘭を見てたら何か胸がぎゅーっと苦しくなってさ、目なんかそらした  りしちゃうんだ・・・」  マリアは突然のカンナの告白に驚いていた。今までカンナは大神に対する想いをこれほど  はっきりと口にしたことはない。意外だった。  「はは、らしくねえだろ?」  カンナは空になったグラスの奥を覗き込んでいた。  「でも隊長が行ってしまえば気持ちの整理がつけられるなって」  「・・・」  「隊長が帰って来るまでにはきっと二人に心からおめでとうって言えるあたいになってお  こうってさ、そう思ってるんだ・・・」  マリアは二人のグラスに最後のウオッカを注いだ。  「強いのね、カンナ・・・」  「強くなんかないさ・・・」  「いいえ、私には真似できない、私は私は・・・」  マリアは顔をそむけると肩をふるわせた。  カンナはその肩を優しく抱いた。  「よせやい、あたいまで泣いちゃうじゃ・・・ねえかよ・・・」  空になったウォッカの瓶が二人の顔をぼんやりと映し出していた。。
◇◇◇◇◇◇

 翌朝、二人は食堂で顔を合わせた。
 「昨日はすまなかったね、マリア」
 「いえ私も言い過ぎました、すいません」
 大神も一晩悩んだのだろう。見るからに寝不足のようだ。しかし表情は決意に満ちあふれ
 ている。
 「マリアのおかげで目が覚めたよ」
 「で、どうなさるおつもりですか」
 「うん、手伝ってもらいたいことがあるんだ」

 ・・・・・・・・・

 「え?そうなんですか!」
 「う、うん、こんなことはマリアにしか頼めないからなあ・・・」
 急に少年っぽく口ごもる大神にマリアは微笑んだ。
 その微笑に隠された想いに大神が気づくことはない。
 (マリア、しっかりするのよ!)
 「わかりました、おまかせ下さい」


◇◇◇◇◇◇
 朝になっても紅蘭はまだベットから出ようとしなかった。  今、食堂に行くと大神はんと顔をあわしてしまう。  (大神はんは今頃楽しくみんなと朝ご飯食べてるんやろか?)  そう思うだけで胸の奥がキーンと痛くなる。  紅蘭は枕を胸に抱いて耐えた。  大切な花組のみんな・・・  なんやかんやゆうても帝劇の看板女優にならはった、すごいで、さくらはん。  すみれはんはいつも自信持って花咲いたみたいに輝いてるなぁ、まぶしいくらいや。  アイリスみたいにうちも昔は天真爛漫やったんかなぁ。  織姫はん、知らん国に来ても堂々と胸張って最高の演技をしてはる。  いつもみんなのことを一番に考えてうちらを暖かくフォローしてくれはるマリアはん。  カンナはんは信じる道に向かって脇目もふらずに修行にはげんではる。  ここのところ、すっかりみんなに打ち解けて明るくなったレニはん  (それにくらべてうちは・・・)  もしかしたら大神はんが好きなのはうちとちゃうかもしれへん。  他にもっともっと素敵な人等がおるねんもん。  そう思うとまた胸が苦しくなって・・・  (うちどうしたらいいの?)  (コン、コン)  突然ノックの音がした。  「紅蘭、ちょっといいかな」  大神はん!紅蘭はガバッとベッドから飛び起きた。  こんな涙に濡れた情けない顔を大神に見せるわけにはいかない。  「お、大神はん、まだ着替え中やから、かんにん・・・」  「・・・わかった、じゃあこのまま聞いてくれ」  大神は一つ息をした。  「紅蘭、明日の夕方時間をくれないか」  「・・・・」  「一緒に行って欲しい所があるんだ」  「でも、明日もうち舞台の稽古が・・・」  「支配人にもマリアにも了解は取ってるよ」  (どんな顔をして行けばいいん・・・行かれへん・・・)  思わず「かんにんな」という言葉がのどから出そうになったその時、  「君じゃなきゃ駄目なんだ・・・」  大神の優しい声が聞こえた。  「明日は、5時に戻るから玄関で待っててよ」  「わかりました」  「じゃあ、また明日、おやすみ」  「おやすみ・・・大神はん・・・」  ドア越しに大神の遠ざかる靴音を聞きながら彼女は今の大神の声をかみしめるように思い  起こしていた。  (君じゃなきゃ駄目なんだ・・・)  一筋、涙が頬を伝う。  明日はっきりさせよう、このままじゃどうにもならない。  うちの気持ちをはっきり伝えよう。  (それで駄目やったら・・・)  紅蘭は窓を大きく開けた。  早春の風が渦を巻いて紅蘭を包み込んだ。
◇◇◇◇◇◇
 夕方の銀座の街を二人は歩いていた。すでに夜の賑わいがあちらこちらではじまりつつある。  「大神はん」  「ん、何だい?」  「一緒に行って欲しい所って・・・どこやの?」  「行けばわかるよ」大神はそれ以上は何も言わない。  やがて大神は1軒のカフェの前で足を止めた。  「ここってマリアはんの行きつけのお店とちゃうん?」  「そうだよ、入ろうか」  中に入ると大神は一瞬店内を見渡すとすたすたと奥の席に歩み寄った。  (誰かと待ち合わせでもしてるんかな?)  紅蘭も慌てて後を追う。  和服の小柄な女性が座っていた。  「母さん、ひさしぶり、待ったかい?」  (大神はんのおかあはん?)  「紅蘭、紹介するよ、俺の母さん」  紅蘭は状況が見えずに絶句した。  (何でおかあはんが東京に?)  大神は照れ隠しに頭をかいた。  「出てきてもらったんだ、東京見物がてら」  「こんなことがなかったらなかなか来れないからねえ」大神の母親の声は優しく聞こえた。  「父さんはやっぱり駄目だったんだ」  「そりゃいきなりだったからねえ、ちょっと都合がつかなかったよ」  「迷わずこれた?」  「ああ、あの何というたかな、背の高い金髪のべっぴんさんには駅ですぐ会えたよ」  ようやく紅蘭は我にかえった。  「べっぴんさんってマリアはん?」  「うん、ちょっと昨日頼んだんだ、母さんの出迎えを」  大神の母親はしっかりとした眼差しで紅蘭を見つめた。  「大神一枝いいます、あんたが紅蘭さんですか?」  「あ、はい、うち・・・いえ、私が李紅蘭いいます。大神はんにはいつもお世話になって   ます」  一枝は目を細めて紅蘭の手を取った。  「おうおう可愛い子やないですか、一郎にはもったいない、よう話は聞いとるよ」  「そんな・・・可愛いやなんて」  「眼鏡がよく似合っとる」  「そうですか、おかあはん、おおきに」  大神の母親の気さくな人柄のおかげか、紅蘭はリラックスして受け答えをすることができた。  ひとしきり話が済んで、一枝は大神の方を向いた。  「こりゃ、一郎!」  「え、母さん・・・」  「お前こんなええ子泣かしてどういうつもりや!」  「え?」  「あんたが仕事なんかすっぽかして紅蘭さんとゆっくり里帰りしとったら何も問題ありゃ   しませんがな」  「母さん〜無茶言うなよ〜」  「何が無茶なもんか、外国に行く前に何を真っ先にせにゃならんかわからんか?」  一枝は紅蘭を見て片目をつぶった。  「紅蘭さん、あんたがしっかり手綱握らんとこの子はいつまで立ってもぼーっとしとるよ、   はよ子種もろうて孫の顔あたしに見せたって」  「こ、子種」  大神と紅蘭の顔が真っ赤になった。  「他のお客に聞こえるじゃないか、恥ずかしいこと言うなよ」  実際、周りのお客やウエイトレスは笑いをかみ殺している。  「一郎、何気取っとる、そのつもりで紅蘭さんとあたしを引き合わしたんでしょう」構わ   ず一枝は大声を張り上げる。  「どうしても巴里に行く前に会わせたい人がおるからすぐ上京してくれと頼みこんだんは   どこの誰でしたかいな?」  「お、大神はん、そうなん?」  「いや、あの、巴里に行ってしまうと、その、あの、またずいぶん先になってしまうし   ・・・、うん、会わせるのが・・・」  「何やろね、この子は、はっきりせんね」  (大神はん、うちのためにわざわざ・・・)  忙しい中、おかあはんにわざわざ上京してもうてうちに会わせてくれはった。  (大神はん・・・)  かたくなだった心がほぐれていく。   一枝は紅蘭の手をしっとりと握った。  「紅蘭はん、一郎はお国の仕事で遠くに行ってしまうけど、もしこんな子でもよかったら   待っといてくれんかな?」  紅蘭は一枝の瞳を見た。その瞳には大神への、そしてもしかしたら紅蘭に対する母親の愛  情が優しく見えたような気がして、  「はい、お母さん!うち待ってます!」  紅蘭はごく素直に背筋を伸ばして答えることができた。それはとても嬉しいことだった。  横を見ると大神も恥ずかしげに微笑んでくれた。
◇◇◇◇◇◇
 「ほな、紅蘭さん、明日頼みますわね〜」  明日大神の代わりに帝劇を案内することを約束して、今日の宿である帝国ホテルのロビー  で一枝と別れた。  「楽しいお母さんやなあ」  「田舎者だろ、参っちゃうよ」  二人は夜の街をゆっくりと歩いた。  「あのな、大神はん」  紅蘭は大きく息を吸った。  「紅豚号つぶれてもうてほんと迷惑かけたなあ」  やっと、屈託なく言えた、いつものように。  「ううん、おかげで母さんに東京見物もさせてやれるし、良かったよ、かえって」  大神は紅蘭の頭に手を乗せた。  「紅豚号は紅蘭の夢へ向かって飛ぶつばさだったのにね、壊れちゃったけど」  「気にせんといて!また作り直すさかい!」  「その意気だよ」  信号が赤になり二人は立ち止まった。すっかり暗くなった夜の銀座をヘッドライトが左右  に流れていく。     大神は紅蘭の方に向き直ると肩に手をやった。  「どうしたん?大神はん?」  「紅蘭・・・」  「こんなこと言ったら笑われるかもしれないけど」  (ドキン)  「俺もなれないかな、君のつばさに」  「え?」  「君を乗せて飛ぶつばさに・・・」  「大神はん・・・」  「たとえ遠く離れてしまっても・・・俺は必ず帰ってくる、君の元へ」  「そして紅蘭、帰ってきた時、その時には・・・」  (あっ・・・)  紅蘭は大神の腕の中にいた。  街の喧噪が一瞬の内に消え失せる。  そして耳元でささやかれた言葉。  大神のぬくもり、鼓動、全てを・・・。  心に刻み込んでおこう、命ある限り・・・。  「うちでいいの、本当にうちでいいの」  大神は紅蘭の瞳をまっすぐに見た。  「君じゃなきゃ駄目なんだ・・・」  紅蘭の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。  「うん、うち待ってる、ずっとずっと待ってるからな」  うちの新しいつばさ・・・  大神はんとやったらどこへにも飛んでいける。  しっかりと大神の体を抱き直すと大神も応えてくれた。  (いつまでも一緒やで、大神はん・・・)
◇◇◇◇◇◇
 「マリア、寝れねえのか?」  テラスで夜の街を眺めているマリアの背にカンナは声をかけた。  「カンナ・・・」  「まだ帰って来ねえのか〜、どこほっつき歩いてるんだ」  マリアは答えずに街の光を見つめている。  カンナは瞳に心配そうな色を宿した。  「マリア・・・、お前、まだ隊長のこと・・・」  「たとえ隊長が私を見てくれなくても・・・」  ロケットを握りしめる。  「私の隊長はあの人だけ・・・」  「マリア・・・」  「心配しないで、カンナ、私は大丈夫よ」  マリアはカンナを安心させるために微笑んだ。  (私は隊長への想いを忘れない、忘れずに強く生きていきます)  目を上げるとカンナがじっと見つめていた。その瞳には自分と同じ想いが秘められてるよう  な気もして・・・、マリアはそっと微笑んだ。  「ここで二人が帰ってくるのを待ってる姿はマリアには似合わねえよ」  「ええ、そうね、そうよね」  瞬間、カンナの拳が唸りを上げて虚空に走った。その先に大神がいたならきっとよけきれ  なかったに違いない、そんなするどい突きだった。  「こんな美女二人をほっとくなんてボンクラな隊長だぜっ!」  ボンクラというおかしな言葉に二人は思わず吹き出してしまう。  「カンナ、たまには一緒にお風呂に入りましょうか?」  「お、珍しいねぇ〜、マリアがそんなこと言うの」  カンナはとても気持ちのいい笑顔をくれた。  「どうせなら他のみんなも誘って景気良く入るか!」  「いいわね、そうしましょう」  「そうと決まったら、さあ行こうぜ、マリア!」  先にみんなを呼びに行くぜ!駆けだしたカンナの後をゆっくり追いながらマリアは思った。  この想いは大切に心の奥に閉まっておこう。  そしていつの日か伝えよう、私はあなたを愛していましたと・・・。
  −了ー

あとがき
 う〜ん、紅蘭誕生日記念というのに誕生日が全然出てきませんでしたね〜(^^;
当初とまったく話が変わってしまい苦労しました。
 実は「新たなつばさ」という題名は、日本初のヘリコプターと紅蘭との出会いを誕生日にからませて書くつもりでした。ヘリコプターの資料や当時の航空事情の資料をそろえて書き出したはいいのですが、話が暴走してしまいヘリコプターどころじゃなくなったので結局はしょった次第です。
 日本初のヘリコプターの話はまた形を変えて書きたいと思います。
 私の書く紅蘭はどうもジメジメしてしまい、自分でもいかんなあと思ってるんですが、女の子らしい紅蘭が見てみたいというorchidの深層心理のなせるワザということでお許し下さい(^^;
 マリアとカンナの比率がでかくなってしまったのも計算違いです。
 他のキャラのからみをおかずに入れようと思い登場させたのですが、紅蘭を食ってしまっているかも(^^;
 思いの他長くなりましたが、お楽しみいただければ幸いです。

                      2000.3.9 orchid


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