彼女の場合

彼女の場合
著・本郷 弥生
 智子が塾の外に出たとき、もう辺りは真っ暗になっていた。年の暮れも押し迫り十二 月ももう十九日で、一年で最も日の短い頃となっている。智子は暗い道を、駅へと向か って歩き出した。  試験休みから冬休みへのこの間、普通の生徒は定期試験から解放されて遊びほうけて いる頃だが、大学受験を目指す身としては、試験休みくらいでゆっくりしてはいられな い。大切なのは定期試験よりも予備校や塾の模擬試験の結果である。学校の勉強中心の 定期試験とは別に、実際に受験に使える実力を身につけていかないといけない。今日も 定期試験の最終日であるが、塾はある。そして智子は明日から始まる五日間の冬季講習 もとっていた。  冬季講習の初日、指定された教室へ向かうと、そこはもう生徒でいっぱいだった。前 の方の席はあらかた埋まってしまい、後ろの方の席しか残っていない。仕方なく空いて いる席に智子は腰掛けた。  午前中、英語の講師の大きな声が静まりかえった教室にこだましている。復習講座と はいえ、ふんだんに新しいテクニックや用法を交えているのでむしろ普通の講義よりも 集中力がいる。黒板に目をやり板書しているとき、智子は妙な違和感を覚えた。変やな 、と思いながらも授業に没頭しようとしたが、どうにも調子が悪い。どうやら眼鏡の度 が合っていないようだ。しばらく勉強に集中しすぎたためか急に目が悪くなっているよ うだ。早いうちに何とかしようとは思ったが、今日はどうしようもない。とりあえず、 午後の授業では出来るだけ前の席をとろうと考えた。  昼休み、弁当を食べながら寺女の生徒が黄色い声で騒いでいる。男子生徒たちは近く のコンビニやファストフードへと買い物へ出かけている。寺女の生徒の声はやはりうる さい。偏差値の高い高校であるが、話している内容は自分らの学校の生徒とそう変わり はしない。それだけに、軽々と授業をこなしているような生徒をみるとあせりを感じて しまう。  この塾での智子の立場ははっきりとしている。この界隈の有名進学校の生徒ばかりが 集まるこの塾では智子のように普通の高校から入ってくる生徒は少数である。学校の勉 強と塾の勉強が直結している他の生徒と比べて、遅れた学校の勉強と一緒に、進んだ塾 の勉強をしなければならない生徒は猛烈な予習を余儀なくされるのだ。自然、ついて来 られなくなる者が多く、無理して塾に入っても途中でやめてしまう者が少なくない。  もともと受験で失敗して、進学校に入れなかった生徒、彼らから見れば智子もそうし た生徒の一人であり、智子から近付いてこない以上、別段つきあおうと言う気にもなら ないのだ。  智子は手早く弁当を片づけてしまうと、午後の教室へと向かい、前の方の席をとった 。ふだんの講義だったら、大体において座る場所が決まってしまっているので、あまり 勝手に席を変えるわけにも行かないが、講習も初日だから、まだ各自の座席が固まって いない。  教室では二三人ずつの輪が出来て、世間話に花を咲かせていたが、智子が入ってきた ときに、話し声の急に小さくなった輪があった。よくあることである。きっと、つまら ない噂話をしていたのだろう。他の生徒とあまり話をしないためだろうか、つまらない 噂はいつでも自分の周りにある。まあ、勝手に好きな話をしていればいい。どうせ好き 勝手に話しているだけだ。言わせておけばよい。  智子は周りの生徒の行動には関心が無いかのようにテキストを広げた。自分ではそう 思っていたつもりだが、やはり心の奥では、何かやりきれないものを感じていた。  授業が終わった後、智子は駅前の眼鏡店に寄った。レンズの交換だけで済むかと思っ たが、この店ではレンズ交換には眼鏡を二日ほど預けないといけないらしい。となると その間、眼鏡無しで過ごさないといけない。仕方ないのでフレームごと交換することに した。視力の関係から圧縮率の高いレンズを使うので新しいフレームの代金と合わせて 五万円ほどした。  高校生が日常持ち歩く額ではないが、智子は母親のクレジットカードを預かっている 。母親も仕事が忙しくて、あまり娘のことばかりに構っていられないので、必要な買い 物をカードでするように言っている。こういう買い物も智子にとっては日常的なものだ 。ついでに父親からもカードを持たされている。  ただ、たまたまフレームの矯正に来ていた同じ塾の生徒がカードで買い物している智 子の姿を見ていた。そのことに智子は気付いていなかった。  智子がカードで買い物をしている姿を見たその生徒は、以前から智子に良いイメージ を持っていなかった。彼女は智子のことについて、黙って何を考えているのか分からな いとか、ちょっとしたことだけでいちいち気に障る仕草をするとか、そういった噂ばか りを聞いていたし、自分でもそんな感じだと思っていた。  その夜、彼女が友達との電話で、そのことを話題にあげたら相手も似たような光景を 目撃していたことが分かった。高校生があまりカードで買い物するものではない。智子 が別居中の父親と会っているときのことを見られたこともあったので、その生徒たちは 自然に、智子がやはり援助交際をしているに違いない、という結論に至った。次の朝は そんな話が教室の話題を独占していた。    智子が教室に入ったとき、一瞬、教室がしんと静まり返った。少し授業に遅れたのか とも思ったが、時計を見るとまだ時間がある。教室の様子も妙である。智子は空いてい る席を探してみたが、三人掛けの机であいているものはもう無かった。仕方ないので一 人で座っている生徒の隣に鞄をおいた。その生徒は少し顔をしかめると真ん中の椅子に おいてあった自分の荷物を自分の足下に置きなおした。心持ち椅子も机の一番端に寄せ たようだった。周りの生徒が智子を見る目もいつもと違うようにみえる。女子生徒は何 か冷ややかな目つきだし、男子生徒の目つきも妙なものがある。そして、ひそひそとし た声が聞こえてくる。 「ほら、真面目そうな顔してるのに」 「まさか昨日も?」 「ああいうのがいるからあたし達までがいろいろ誤解されるのよ」  何があったのかは分からないが、どうもまたなにか噂が流れたようだ。  別に気にしない。根拠のない噂に関わっているほど自分は暇ではない。どうせ彼らと はこの塾だけでのつきあいだし、そもそもつきあいというほどのつきあいなど無い。授 業の邪魔さえされなければいい。  自分でそう考えて、智子は納得した。  でも、自分の心の奥では、納得していないことに、智子は気づこうとしなかった。  駅までの帰り道、暗い道を一人歩いていると歩き慣れた道のはずなのに急に寂しくな ってきた。不意に訪れたその感情は、見る間に大きくなり、智子の心の中を支配してい った。智子は、自分でも分からないうちに電話ボックスに入り込むと、カードを差し込 み、ボタンを押した。  呼び出し音が何回か響いて、回線がつながった。 「はい、藤田です。只今出掛けており………」  智子は受話器をたたきつけるようにフックにかけた。  五日間の冬季講習も終了した。教室の中の生徒たちは解放感からかざわついている。 あちこちでこれから遊びに行く集まりが出来ている。智子は別段何も気にすることなく 塾を出て、そこで突然声をかけられた。 「保科さん、今から暇?」  よく知らない男子生徒が二人、そこに立っていた。一人は少し格好つけている長髪の 優男で、もう一人は少々がっしりとした体格のスポーツ刈りだった。どちらも顔には少 しにやにやした表情が浮かんでいる。智子が黙ったままいると二人は続けて言った。 「今日で講習も終わりだし、折角だから打ち上げでもやろうよ」 「そうそう、パーッと羽根を伸ばして遊ぼうぜ」  少し考えてみたがどうも覚えがない。長髪の方が高田で、スポーツ刈りの方が長沢だ と名前くらいは知っているが、別段親しいわけではない。とりあえず無視することにし て、智子は駅の方へと歩き出したが、その間も二人はあれこれと話しかけて智子を誘お うとしていた。たちの悪いナンパだが、無視しておけばそのうち諦めるだろうと思い、 智子はすたすたと駅の方へと歩を早めた。 「だから……………で、……………しようぜ?なあ」 「この店が……………で、……………なんだよ」  二人は交互に色々と話題を振ってくる。聞いていてもうるさいだけだが、目と違って 耳は自分では閉じられない。声を聞いているだけでもむかむかとしてくるが、相手をす るとつけあがるだけなので無視を続ける。  すたすたと駅の方へと歩きながら、何か別のことでも考えて気を紛らわそうと思った が、むしろイライラがつのってきた。  色々と話題を振ったりして興味を引こうとしたのに、一向に智子が相手にしないので 、高田の方がだんだん険悪な雰囲気になってきた。 「なあ、あんまり無視してんなよ」  急に言葉遣いが荒っぽくなり、智子の肩を掴んだ。その瞬間、智子の我慢も限界を越 えた。かけられた手を払いのけて、 「汚い手でさわらんときっ!」 と一喝して二人をにらみつけた。 「汚れるやないか」  二人は少したじろいだように見えたが急に高田が大声を上げた。 「んだとこのやろー!」  そのまま智子の体を突き飛ばして路地へ押し込む。智子は肩を掴まれて、背中を塀に 押しつけられた。 「何が汚れる、だ。お前、援交やってんだろっ!えっ、金貰えなけりゃ相手にしねえっ てのかっ!」 「あんたに関係あらへんわっ!」 「うるせえな。金ならやるからやらせろよっ!」  高田と長沢はそのまま智子の腕をとって、路地の奥の薄暗いラブホテルに連れ込もう とする。 「何すんのっ!離しいやっ!」  智子も大声を出し、手足を振り回して暴れるが、男二人にかなうわけがない。そのま まホテルの方へと引きずられていく。  ………やっ………藤田君………  次の瞬間、高田の手がゆるみ、そのまま壁へとたたきつけられた。 「てめえらっ!何してやがるっ!」  突然現れた浩之は叫びながら長沢の横っ面ををブン殴った。長沢の胸ぐらをつかみあ げ、壁に押しつけて腹を二三発殴りつける。うめき声を上げ、腹を抱えながら崩れ落ち る長沢に更に蹴りをいれた。もう一発蹴りを入れようとしたところで、後ろから高田が つかみかかり、浩之を締め上げる。浩之も懸命に高田を振りほどこうともがいた。その まま二人はしばしもつれ合ったが、そのうちに浩之は後ろに体重をかけ、高田を下敷き にして倒れ込んだ。だが、高田は潰されながらも浩之を抱えた腕をほどこうとしない。 そのうちにようやく起きあがった長沢が浩之に向かってくる。浩之は必死にもがくが高 田は離そうとしない。万事休すと思ったとき、智子の振り回した辞書入り鞄が、長沢の 顔面に直撃した。 「ナイス、委員長」  もう日もとっぷりと暮れていた。コートの上から冷気がしみこんでくる様な気がする 。公園の水場で濡らしたハンカチで、智子は浩之の頬を拭いた。 「イテッ…………もう少し優しくして………」 「男やろ、我慢しいや、後で腫れるで」  そのまま丁寧にハンカチをあてる。冷たい感じが浩之に心地よかった。 「まったく………ちょうどええとこで出てくるんやから………何日も顔見せんかったく せに」  智子が愚痴っぽいことを言う。 「ああ、最近バイトしててな。………塾の帰りなら捕まえられると思って………はいこ れ」  浩之はそう言うと鞄から包みを取り出して渡した。 「何やこれ」 「開けてみな、今日渡したかったんだ」  デパートの包装に包まれている。テープを外して開けてみると、マフラーが入ってい た。カシミア製の、有名なブランドのものだった。 「まあ、バイト代ほとんどふっとんじまった」  浩之は照れているのかあさっての方を向きながら言った。  智子はマフラーをそっと広げると頬にあてた。柔らかく、暖かい。 「アホや」 「えっ」  智子の意外な言葉に浩之は驚いた。 「せっかくのバイト代、こんな事につこうて………アホや」 「……………………」 「でも、嬉しいわ………」  そのまま浩之の肩にもたれ掛かった。そんな智子の言葉と仕草に浩之は上気した。 「あっ、いや、クリスマスだしな。喜んでくれるかなあ、なんて思ったりなんかして… ……」  もう少しスマートに渡すつもりだったのに、智子にすっかりペースを捕まれてしまっ た。二人はしばしそのまま体を寄せ合った。互いに温もりを服越しに感じあった。  そして浩之がそっとつぶやいた。 「……メリークリスマス」  軽く微笑んだ智子に、ゆっくりと浩之の顔が近付いてくる。智子もそっと瞼を閉じて 、唇を差し出した。浩之は優しく唇を重ね、二人はそのまま長くキスをした。  長いキスを終え再び二人は見つめあった。浩之が急に思いついたように言う。 「あれ、眼鏡変えただろ」 「えっ、うん………気づいたん藤田君が最初やわ。何でわかったん?」  浩之は苦笑しながら答えた。 「何でって……似てるけどちょっと違うからな。見りゃわかるよ、委員長のことなら」 「と・も・こ」 「あ、ごめん、つい………智子」  甘えるような智子の指摘に、顔をほころばせながら浩之は言い直した。  浩之は立ち上がり、駅まで送るよと言った。智子も立ち上がった。夜風が思ったより も二人の体を冷やしていた。智子はもらったばかりのマフラーを半分自分の首にかけて 、もう半分を浩之に巻いてあげた。温かみが伝わってくる。  二人は駅へ向かって歩き始めた。 二人そうしていると、さっき起きたことがずっと昔にあったことのように、自分の身の 回りに起きたことでは無いかのように思われてきた。 「今日のような奴ら、多いのか?」 「ん?……………うん」 「変な噂か?」 「いろいろや」 そのまま二人黙り込んだ。外灯がぼんやりと二人を照らし出す。駅前は明るいがこのあ たりは人通りも少なくさびしげだ。 「なんかあったら………俺に言えよ………」 不意に浩之がつぶやいた。そして智子の肩を軽く抱き寄せた。  やっぱ、ええな。 一人でいるときのように気が張りつめていない。胸の鼓動とともに、心が和み温まる。 塾での嫌な思いも、さっきの男達のことも全部溶けて消えていった。 マフラーの温かみと共に、この人なのかな、とふと思った。  二人寄り添うように歩きながら、智子は浩之にささやいた。 「実は、うちも藤田君にプレゼントがあんねん」 「何?」 「今日もどうせご両親おらへんのやろ?」 「ああ………えっ」  言葉の意味に気付いて浩之は思わず智子に向き直った。 「今夜、楽しみにしとってや」  智子は浩之の腕にしがみつくと、少しいたずらっぽく微笑んだのだった。 終

戻る