| 自分も嶋左近清興は実在武将としての認識しかありませんな。 『洞ヶ峠』の語源を生んだとされる筒井藤四郎藤政入道順慶の元で松倉右近と共に 『右近・左近』として重用されたが、順慶死後後を継いだ定次に愛想を尽かし1588年筒井家を退転。 豊臣秀吉の弟・秀長に仕えるも1591年秀長病死、後継の秀保も1591年事故で水死。 既に老境に差し掛かった55歳の左近は世を儚んで近江の片田舎に退くが、石田三成の意気に感じ入り軍師として仕える。 家康が会津討伐に向かう途上でかつての三成領・近江水口城に立ち寄ると言う情報を仕入れ左近は暗殺しようと襲撃に向かうが、通報者があり失敗。 この結果家康との敵対を表明する形となった三成は挙兵。弁舌力と『豊臣家への義理』という御題目を駆使し合計8万4000もの軍兵を集めたが、武将達が義理だけではまともに動かない所までは生真面目な三成には読めなかった。 左近は当初からこの結果を読んでおり、先に書いた暗殺以外にも幾度となく三成に襲撃を進言するが公明正大さを由とする三成に却下され、遂に関ヶ原に散る。
とこう言った感じですか。 影武者徳川家康の方が真実味があるようにも感じられますがw
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