南山口リベンジ

平成19年1月7日〜9日


荒滝城本丸から



城をまわるようになって2年目の大学4年の冬に、対馬から始まって北九州、山口を経て広島の三原まで至る大遠征に参加した。
全体としては充実した遠征だった。しかし山口県内においては、地元住民に騙されて勝山城を、更に雨の為に蓮華山城と鞍掛山城を登り損ねてた。おまけに名物の河豚を食おうと小郡の街をまわったがまともな店が見つからず、右田岳城ではロッククライミングみたいな事をやらされた。とにかく、山口県内では碌な事が無かったのだ。


「いつの日か、勝山城に再挑戦したい」

会う度に窪谷さんは、遠い目をしながらこう言っていた。四王司山山頂から見る羽目になった勝山城。全国各地の城をまわりながらも、我々の心の奥底には勝山城に対する悔しさが流れ続けていた。
そして2006年の安倍内閣によって掲げられた「再チャレンジ」。これによって我々の勝山城への想いが一気に溢れた。山口へ行こう。山口へ行こう。山口に行って勝山城に登ろう。鞍掛山に登ろう。食い損ねた河豚を食おう。

そして窪谷さんの忙しいスケジュールを縫い、ようやくのことで年初に南山口遠征を企画するに至った。


再戦までの11年…何と長かったことだろうか。その間にご結婚されてご子息も大きくなられた窪谷さんと、その間に就職して離職してニート2年目突入の自分。この2人による山口県へのリベンジが、いま始まるのである。




○1月7日
前日の晩から大雪。午前5時半に家を出たのだが駐車場は10cm近い積雪で、近所の道はどこも真っ白。山陽道に乗っても熊毛ICまで路面は雪で覆われたままだった。
城山に雪が積もると登り難くなる上に写真を撮っても何が何だか判らなくなってしまう。それに下手をしたら新幹線も不通になってしまうのではないかと心配だったが、徳山に入ったとたんに雪がどこかに消えてしまった。見渡す限りの山に雪の白は全く無く、天気も快晴で絶好の登山日和である。
そのあまりのギャップに唖然としながらも、時間前に新山口に到着。15分遅れのひかりで来た窪谷さんと合流して、第1目標の霜降城へと向かったのであった。




霜降城


左:前城南側の堀と土橋、右:前城頂上



左:本城頂上、右:本城南下の大堀切?



左:本城周辺、右:後城(南)頂上



左:後城(北)頂上、右:後城(北)東側



左:後城(南)南側、右:後城と本城の間




平成19年1月現在、車道が一部崩落して手前の鉱泉までしか入れなくなっている。鉱泉から前城まで徒歩30分。

霜降城はJR山陽線の厚東駅の南南西3km、標高250mの霜降山山頂にある本城を中心に、北東と南東のピークに後城と前城とが独立している。本城西側のピークにも平坦地らしきものがあり、これを中城とする事もあるらしい。
前城は一番南にあり、郭は1ヶ所で平坦でもないが、南側に堀が巡らされ土橋がかかっている。本城は頂上の平坦でもない郭と、その南にある円弧型の土塁とその間の大堀切、さらに南側に平坦でもない郭が続いている。後城は南北2ヶ所のピークにある平坦部とその周りにある郭群からなり、霜降城の中ではもっとも規模が大きく手も込んでいる。南北朝期の荒い造りの山城だが、一部後世の造作によるものも存在し、本格的な発掘が望まれる。

南北朝期に長門守護でもあった厚東氏の本城である。周防の大内弘世に攻められて延文3年(1358年)に落城した。




信田ノ丸城(信田丸城)


左:分岐点付近に建つ看板、右:西端の堀切



左:西から2番目の堀切、右:西側の郭



左:主郭(最高地点)、右:東側の郭(主郭東端から)



左:本丸の東側、右:南下の郭






頂上にあった看板に描かれた縄張り図


信田ノ丸城は宇部市の奥万倉、今富ダムの北北西のはるか山の中にある。看板の立つ分岐から一応車道が西へ入っているが、道が狭い上に駐車スペースが殆ど無いので、分岐に駐車して歩いたほうが良い。
峠までの道は悪い。道そのものは良いのだが、枯れ枝や石が道を覆っているために非常に歩きづらい。尾根筋に取り付いてからは歩きやすくなる。また看板が何ヶ所かに置かれているために道はわかりやすい。麓の民家横から徒歩20分程。

西の尾根に、2つの大きな堀切が置かれている。斜面も急であり、防御効果は大きそうだ。それから直ぐに西側の郭、そして主郭へと続く。主郭は東西に長く、西側が高くなっている。主郭の東側にも郭が続いているが、藪になっており入るのは難しい。
主郭東側には看板と碑が建ち、南側の木が切り払われていて眺めは良い。軽い登山には丁度良い山である。

大内氏重臣の杉伯耆守重長が居城していたといわれている。



頂上で軽く昼食を摂る。風が強くて寒かった。




荒滝山城


左:主郭から南東方向、右:主郭から東方向



左:主郭の東側、右:主郭西下の長い郭



左:西郭の西側の堀切群の一つ、右:主郭西下の長い郭の西端の石垣



左:西郭西側の堀切群の一つ、右:西郭



左:西郭の北端、右:西郭北下の畝状縦堀群



左:西郭北下の畝状縦堀群、右:麓からの荒滝山






頂上にあった看板の縄張図


県道30号線を北上し、県道231号線へ入り、犬ヶ迫付近で看板を頼りに細い林道へと入る。南麓の民家の空家の南側にやけに立派な駐車場が造られている。林道は荒滝山の北へ回りこんでいるが、駐車場から直ぐの場所でチェーンブロックされているので、この駐車場から歩いて登るしかない。道は良く整備されており歩きやすい。急坂も九十九道にしてあり、傾斜は緩やかである。駐車場から頂上まで徒歩30分ほど。

主郭周辺は非常に良く整備されている。立ち木が払われ、眺めが最高である。縄張は大規模だが、東側の出丸方向へ道が続いているかどうかは確認していない。西郭方向へは日ノ岳へ向かう登山道が続いており、多少荒れてはいるものの西郭周辺の堀切群や畝状縦堀群を見てまわる事ができる。これだけ立派な山城が、あまり紹介されていないのは勿体無い。また荒滝山の北東麓、今小野に屋敷跡があるらしい。

大内氏の重臣内藤興盛の第九子、隆春の居城。隆春は毛利氏と近く、大内氏滅亡後は長門国守護代となった。




岡部城



城郭大系の記事からすると、秋芳町岩永本郷の、国道435号線の脇にある小山かと推測されるが、国道からは看板らしきものも見当たらず、時間も無かったことからパスする。

岩永の地頭、岡部氏の居城。承久の変の後にこの地に入り、以後厚東氏、大内氏に仕える。天文20年(1551年)の陶晴賢の謀反の際には、岡部隆景は大内義隆と共に大寧寺で自害している。




茶臼山城


左:主郭西下の虎口、右:主郭



左:北側の腰郭、右:北側の腰郭(南方向、奥上が主郭)



左:本来の登山道、右:登山道入り口



右:東麓にある看板の縄張図


日本名水100選の別府弁天池のすぐ西の小山である。弁天池の駐車場が使え、また看板も判りやすいのだが、肝心の登山道が荒れてしまって入るのは容易ではない。反時計回りの螺旋形に主郭へと登って行くが、案外と広い主郭も一面雑木で、地形の確認も出来ない。なんとも勿体無い。

北東の314mピークにある堅田城(刺賀城)の出城である。




青景城


左:出城(神社)、右:出城頂上



左:本城、右:土居(居館)?



左:土居?と思われる付近、右:土居?と思われる付近





秋吉台の北西に位置する青景に、本城、出城、そして土居(居館)が点在している。出城は頂上が神社になっており、また南麓には公民館になっているのでアクセスが容易である。本城は時間が無かったために探索していないが、遠目から看板らしきものは見当たらなかった。居館と思われる付近は回ってみたが、城郭大系の記事に合致する場所は判らなかった。

藤原秀郷を祖とする青景秀通の居城。平安時代後期にこの地に入って以降、厚東氏、大内氏に仕える。陶晴賢の謀反に同調したため、それ以後は青景姓を廃したとある。



日が暮れたので切り上げ、下関へと移動。
ホテルにチェックイン後に、ホテル内にあるサウナへ。場内ではパンツ着用というシステムが理解できずに3度くらいカウンターへ質問に行って呆れられる。久しぶりの広い風呂だったが、客層が偏っていて落ち着かなかったので早々に上がる。

近くの居酒屋で夕食。念願の河豚料理。
河豚の刺身、白子、唐揚に天婦羅、鯨の竜田揚げ、寒鰤の刺身などを頂く。居酒屋だったが本格的な料理で美味しかった。しかも窪谷さんに奢っていただけたので、更に素晴らしい夜になった。

疲れていたこともあり、午後10時前には就寝。



ここから以下のページへいけます。