東北遠征 その2

その2(1995.8.21-24)


Aさんのインテグラ

「ドライブがてら、東北の城巡りをするんだが、一緒にいかんか?」 という、窪谷さん(仮名)からの突然の電話で参加を決め、8月21日午前8時に桜台駅前に集合。秋田さん(仮名)の運転するインテグラ(丸ライト)に窪谷さんと乗り込み、一路常磐道を北へ。

今までは、鉄道、バスなどの公共機関を主に利用していたため、駅やバス停から城(城山)の入り口まで詰めるのに、30分ぐらい平気で歩くというようなことも多々あり、「こういうときに自動車があったらなー」とよくぼやいていたが、今回は端っから自動車。その機動性を十分に活かしての、比較的楽な遠征であった。


○8月21日


大館城(飯野城)



いわき市平の西方にある台城。文明15年(1483年)に岩城常隆によって築かれる。慶長7年(1602年)に佐竹義宣が秋田に減封されて移されたのに伴い、岩城義隆は18万石を没収され、大館城には代わりに鳥居忠政が10万石で入ってきた。翌年には平じろを築いてそこに移り、大館城は廃城になった。

平駅からバスも出ているが、この距離なら歩いてでも15分程度で行ける。国道沿いには城の入り口の表示がある。城の入り口から本丸までは、5、6分ほど。現在は公園となっているため、比較的良く整備されている。



小高城



嘉暦元年に相馬重胤がこの地に移ったのが始まりとされている。南北朝時代に北畠顕家に攻め落とされたが、慶長16年に中村城に本拠が移され廃城になるまでは、相馬氏の本城として長く栄えた。
JR小高駅から、徒歩で15分前後。現在は小高神社となっているため、土塁、空掘等が良く残っている。



村上城



亘理城へ行く途中、道路地図に記載があるというので飛び込みで行った城である。小高駅から車で東へ10分。海岸に面した、小高い山の上にある。
現地に立てられた碑によると、この城は築城の途中火事にあい、不吉だということで築城が中止されてしまったという珍しい城だそうである。現在では、すっかり畑と神社にになってしまっている。



亘理城



天正年間に亘理元宗・重宗が相馬氏とたびたび争った時点で、既にこの地に移っていたと推定される。その後、天正19年に亘理氏は涌谷に転封され、代わりに片倉景綱がこの地に入った。さらに片倉氏が白石に移った後は伊達成実が入り、明治維新まで至る。
国道6号線の多田別れ(消防署と警察署がある)で東に折れて進むと右手に亘理神社が見えるが、これが亘理城本丸である。現在では、二の丸にスーパーが建っており、また裏門と本丸の間に道路が通っている。いったい文化財をなんと考えているのだろうか?
JR亘理駅から駅から西へ徒歩15分ぐらい。


○8月22日


涌谷城



江合川の川べりにある。一見、天守閣のようなものが建っているが、これは涌谷町資料館であり(建っている場所も二の丸のはじの方である。最近はこういうものが多く、誠に紛らわしい)本丸は、涌谷神社のある一段高い場所である。二の丸は、一応は城山公園となっていたが、手入れは悪く草がぼうぼうに生えていた。
元々は大崎氏家臣涌谷氏の城であったが、天正18年(1590)大崎氏滅亡と共に秀吉配下の木村氏が入るが、葛西・大崎一揆平定後は伊達領となり、亘理氏が封じられた。
JR石巻線涌谷駅からは、徒歩で15分位。



登米城(寺池城)


左:簡易裁判所を臨む

北上川の右岸にあり、登米の町に対しては北にある小高い丘が登米城である。(近くに紛らわしい丘(保呂羽館)があり、間違えてそこに登ってしまった。上水場がある丘は、全く関係ないので間違わないように)
現在本丸は畑、二の丸以下裁判所、人家、荒れ地となっている。(相承寺という寺はもうなくなっているらしい)
慶長9年(1604)伊達氏家臣白石宗直が水沢からこの地に移った頃、ここから500メートル南にあった保呂羽館からここに拠点が移され、その後は辺り一帯の統治の要として明治維新に至っている。
登り口としては、役場の裏から登ると登りやすい。登ってすぐの所に懐古館という資料館が建っている。ここだけなら200円なので、暇だったら寄ってみるとよいかもしれない。



佐沼城



宮城県東北部の追川低地のほぼ中央に位置する平城である。
天正年間以前のことは余り明らかではないが、南北朝時代には葛西氏、室町時代半ばには大崎氏に支配されていたと考えられている。この城が有名になるのは、天正18、19年(1590、91)の秀吉の奥州仕置、葛西・大崎一揆などの舞台としてである。
今は公園になっている。ちなみに近くに鉄道は通ってないので、この城跡に来るには、どうしても車が必要になるだろう。




高清水城



JR東北本線瀬峰駅から西へ5キロメートル。高清水の町の中にある。
高清水城は、大崎義兼の三男高清水直堅が天文年間(1532ー55)に築城したのが初めてであり、その後大崎氏が滅亡した後も、天正18、19年(1590、91)の大崎・葛西一気の際に伊達正宗の陣所として使われている。その後1604年には、亘理重宗が、1757年には石母田興頼が高清水要害(江戸時代には、一国一城例のため、このように呼ばれていた)を拝領した。石母田氏は仙台藩の重臣で、明治維新までこの地を領した。
現在では、本丸は埋立られて高清水中学校となっている。しかし、学校の東側の田んぼと北側の畑が、それぞれ堀と二の丸のの面影を止めている。



名生城



二の構え脇から内館を臨む

ここは元々7世紀末から10世紀までこの付近一帯を治めていた名生舘官衙があった所で、ここに観応2年(1351)に大崎家兼が名生城を造ったとされている。その後大崎氏が滅亡した後は大崎・葛西一揆の拠点となるが、蒲生氏郷によって鎮圧されて廃城となった。
現在では、そのほとんどが田んぼと住宅地となってしまい、かろうじて内館回りの堀と土塁が残っている他、田んぼや道筋に堀の面影が残っているに過ぎない。



○8月23日


松山城



安永8年(1779)に、江戸城西の丸若年寄の永年勤続の功を認められて築城の許可を受けた酒井忠休が、この松山城を築く。後に戊辰戦争の時桂太郎に引き渡され廃城となる。松山城は、山形県で唯一、当時の建物が残っている城として有名であるが、その唯一残った建物がこの門だけなのである。
現在は松山町歴史公園になっている。近くに高校があるので、それを目印にするとよい。



亀ケ崎城



JR羽越本線酒田駅から徒歩20分。酒田市内の最上川と新井田川の合流地点に位置する平城である。
文明10年(1478)大宝寺氏が砂越氏に対抗するため東禅寺城を構築したという記述から史上に登場する。大宝寺氏が滅びた後、最上氏と上杉氏の争うところとなるが、結局は最上氏のものとなり、慶長8年(1603)には亀ケ崎城と改められる。しかし最上家の内紛による転封の為、元和8年(1622)に酒井忠勝が庄内14万石で入部し、明治維新に廃城になるまで酒井氏の支配に置かれることになる。
現在では城の本丸は酒田東高校になっている。



尾浦城



JR羽越本線羽越大山駅から北へ徒歩20分。
庄内平野南西部の高館山から平野部に突き出した丘陵上に位置している。
天文元年(1532)に武藤氏の本拠大宝寺城が砂越氏の攻撃で大損害をこうむったため、武藤春時が本拠をここに移したのが始まりとされている。武藤氏滅亡の後には最上氏のものとなり、名前も大山城と改められる。その後一国一城令で廃城になり、二の丸に居館のみが残された。
今は大山公園となっている。



○8月24日


琵琶島城



信越本線柏木駅から南に徒歩30分。駅からバスに乗り、農業高校前で降りるとよい。(車で行ったのでバスの行き先は分からない)
琵琶島城は、鵜川の河口、鵜川と横山川(本陣川)を堀とした平城で、現在は、県立柏崎農業高校になっている。城の遺構は、高校建設と鵜川の改修工事のため、ほとんど残っていない。かろうじて高校の校庭に「琵琶島城跡」という碑と土塁跡らしきものが残っているだけである。
南北朝時代に宇佐美氏が上杉憲顕に従って入国し、琵琶島に城を築きここを根拠地としたのが始まりである。宇佐美氏は宇佐美定満の時全盛を迎えるが、永禄7年(1564)宇佐美定満が船から落ちて溺死して以来没落していったようである。天正6年(1578)の御館の乱の際、宇佐美氏は上杉影虎側についたため、上杉景勝によって琵琶島城は攻め落とされている。その後相沢具繁が入城するが、慶長3年の会津転封によって廃城となった。



平井城



上杉氏の有名な城。
JR八高線群馬藤岡駅から南西に6キロ。
鮎川西岸崖上に本城、さらに南に1キロの金山に要害城が築かれている。
永享10年(1438)の鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実との争いの中、上杉憲実がここに城を築かせたのが始まり。その後応仁元年には上杉顕定によって改修され、またこの地は鎌倉と京を結ぶ交通の要衝でもあり、一時は栄えることとなった。しかし上杉氏は、次第に力をつけてきた北条氏と争うようになり、天文20年には北条氏に占領されてしまう。後に長尾景虎(後の上杉謙信)に奪還されたが、既に平井の重要性はなくなっており、遂に破却されてしまう。
現在は、すっかり畑と住宅地になってしまい、かろうじて本丸と二の丸がその面影をとどめている。すぐ近くには平井金山城と高山城もある。



○おまけ


松島城



ただの旅館。エアコンの室外機が何とも間抜けで良い。



戦果
	攻撃対象	14城

	うち 棄権	0城

			14城	攻略



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