西条盆地 最凶山城伝説 序章(多分)

平成18年1月8日



槌山城から西方向を望む




1月7日に広島のアステールプラザで、

広島県内埋蔵文化財4法人共同企画
平成17年度「ひろしまの遺跡を語る」
新春放談「初夢ひろしまの城物語」


という講演が行われ、この講演と絡めて広島周辺で城MLのミニオフを行われることになった。

1月7日当日、神奈川からわざわざ広島くんだりまで来られたWさんとMさん、そして西条在住のFさんと合流し講演聴講。講演が終わった後は焼き鳥屋で飲み、一度解散。翌8日の午前8時に、JR西高屋駅(西条駅の一つ隣)にて現地集合ということになった。



○1月8日

西条盆地は寒い。幸いに雪は降らなかったが、駅舎を出た際に張った氷で滑りそうになり、嫌な予感を感じる。

4人とも無事に集合を果たし、Fさんの車に乗り換えて移動開始。まずは西条盆地の南西側に位置する鏡山城と槌山城。




鏡山城


左:北からの登山道の途中にある石垣、右:東端のくの字の堀切



左:北東の郭、右:北西方向の景色、左奥が曾場ヶ城、右手前が尼子方の付城



本丸(甲の丸)東側、本丸の西側



左:西端の堀切、右:南東にある推定大手門跡



左:南側の畝状縦堀、右:北側の畝状縦堀






鏡山城は現在は鏡山公園として整備されているのだが、何故か今日は工事中で入れなくなっていた。
といってハイそうですかと引き返す程甘くも無いわけで、立ち入り禁止の車止を乗り越えて公園へ入る。休日は工事をしていないのだから開けておいてほしいものである。

比高は100m程で足場も整備されているので麓から10分ほどで本丸に出る程度であるが、あちこちに見所が満載されているので我々は本丸に至るまで30分くらいかかってしまった。
本丸と東下にある二の丸、それから南郭群の間にかけては整備されているが、本丸の北下の縦堀群は整備が悪くて見難い。またこの鏡山城は大きな堀切や畝状縦堀が見所となっているのだが、半分以上の堀切が埋まったり藪になったりしてわからなくなってしまっているのは残念である。
本丸からは周囲が見渡せる。道路を挟んで直ぐ北側には、この鏡山城を攻める為に尼子方が築いた付城(陣ヶ平城)といわれている(更にその北東の山は八幡山城)。Fさんによると、はっきりとした登山道が無くて登り辛いが遺構が比較的良く残っているそうである。

大内氏の東西条(西条盆地・黒瀬川流域)支配の拠点であり、一説には長禄・寛正年間(1457年〜66年)頃に築城されたといわれている。安芸国守護の武田氏との、永正年間末(1521年頃)からは尼子氏との、西条盆地を巡っての争いの舞台となり、大永3年(1523年)には尼子方に攻め落とされる。その後に大内方が奪い返すものの更に奪い返され、拠点は曾場ヶ城から槌山城へと移されることとなり、その後は文献に出ることも無くなった。しかし遺構の状況などから、その後も利用されたのではないかともいわれている。



広島大学前を通って西にある槌山城へと向かう。
初めは南東側の集落方向から寄せようとしたが道が狭い上にややこしくて迷ってしまい、一度県道で南西側へ回り込んで寄せる。池の横が公園化されており、わかりやすい登山道が設けてあった。




槌山城


左:主郭(甲の丸)南西部下の石垣、右:主郭東方向、東側は比高差が激しい上に直下は藪



左:主郭(甲の丸)、右:東側の郭群の段差



左:東端の郭にある堀切(凹地?)、右:主郭直下の藪地帯、かなり深い



左:主郭北西部の郭群の段差、右:登山道から主郭部を見上げる






本丸(甲の丸)までは、しっかりとした登山道が整備されている。ただこの登山道も、本丸に近づくに従って傾斜が急になるという極悪な仕様となっており、本丸の直前になると肉体的にも精神的にもかなり辛くなる。比高250mで30分程。
本丸と南からの登山道は整備が良くされているが、それ以外の郭や東からの登山道は荒れ始めている。特に本丸の北西側の郭群や、本丸の東下の郭は鉈や鎌が無いと進入が困難である。
また東端の郭群と本丸とは100m近い比高差が有るため、南西の登山道を通って本丸に直接出てしまった際には、余分に100mも昇り降りさせられてしまう。郭を全て回りたいなら、東側からの登山道で登った方がよいだろう。

正確な築城年代は不明だが、応永年間(1394年〜1428年)以前にはすでに城があったのではないかといわれている。天文年間(1532年〜55年)に大内氏の西条の支配拠点がここに移され、天文12年(1543年)には大内氏の重臣である弘中隆兼が城監として槌山城に入った。弘中隆兼は西条守護とも呼ばれ、芸備両国に号令する権限を与えられていた。その後は菅田宣真が入るが、大内氏滅亡後に陶氏の命を受けた毛利氏によって攻略される。陶氏が毛利氏に滅ぼされた後は、毛利氏の直轄地となった。


ここの昇り降りで膝を痛めてしまう。



続いては西条盆地の東端に位置する白市へと向かう。
昼時になったので、白市手前にあるFさん行きつけのお好み焼き屋で昼食。
それから古代から丘陵上に栄えた特色のある白市の町をFさんに簡単に案内してもらいつつ、白山城の麓へと向かう。



白山城の西にある館跡、区画整理がされているので消滅も近い



白山城に登る前に、白山城の西の丘陵上にある館跡を案内してもらう。区画整理がなされていたので、近いうちに住宅団地かなにかになるかもしれない。




白山城


左:館跡から城山、右:主郭(甲の丸)、藪で人の居れる空間は狭い



左:同じく主郭、右:主郭の西側の段差



左:主郭南西側に入る登山道、倒木だらけ、右:麓、右矢印から登山道が出ている




白山の西麓には観光用の駐車場が設けられている。城山への登り口は、白山の西麓にある光政寺(西福寺ではない)の脇から奥に入るか、もしくは6枚目の写真の矢印から延びる小道を登っていく。登山道は倒木が多く登り辛い。比高80m程で、徒歩10分。
山頂は藪で荒れ放題。辛うじて本丸にはたどり着けるが、2坪ほどの空間が空いているだけで後は藪。良い縄張りをしているのに勿体無い。白市の町を観光用に整備しているのだったら、ついでにここも整備をして欲しい。

平賀弘保が文亀3年(1503年)に築城し、鎌倉時代から平賀氏の本城だった御薗宇城から本拠をここに移した。
平賀弘保は大内氏に属していたが、尼子氏の西条侵入後は弘保の息子で頭崎城城主の平賀興貞が尼子方となり、天文4年(1535年)とその翌年と親子で戦っている。
天文9年(1540年)に大内方の毛利元就によって頭崎城が攻略されて以降は、平賀氏の本拠は頭崎城に移されたようである。



午後3時近くなって暗くなってきたので、大急ぎで頭崎城へと向かう。




頭崎城


左:道脇の看板から城山を望む、右:南側登山道の途中にある平坦地(鳥居の段)



左:南側登山道の終点、二の丸の南東部、右:太鼓の段の石垣



左:太鼓の段、右:太鼓の段から西を望む、右の出っ張りが焔硝の段



左:南側(白市方面)、矢印が白山城、右:二の丸



左:本丸(甲の丸)、右:本丸南東部の石垣



左:本丸の西部の平坦部、右:焔硝の段



左:西の丸の北側の分岐点、右:北西部へ延びる林道





頭崎城の登山道は主に3つある。城の南の尾根を登るコース、それから薬師堂を経由するコース、そして城の西の尾根を走る林道を車で登るコースである。足もやられているので林道コースで行こうかとFさんから提案が有ったが、その林道はダートで途中には切り返しが必要なくらいに急なカーブがあるという話だったので、安全策を取って南からの登山道で登ることにしてもらう。


登り口から比高200mで20分程。キツイ登山道だが、足場は槌山城と比べると良い。ただ膝がいってしまっているので辛かった。登っている途中で雪が降り始めるが、頂上に着いた頃には止む。

南側に突き出た、太鼓の段と焔硝の段は手入れが行き届き、眺めも良い。白市丘陵から遠く西条の中心部まで見渡せる事が出来、比高200mの登山の苦しさを忘れさせてくれる。
二の丸から本丸にかけては一応整備はしてあるものの、本丸周りの石垣は殆ど草に埋もれてしまい、南東隅の一部分しか拝むことができなくなっている。
そしてそれ以外の多くの郭や畝状縦堀は、道が消えていたり藪に埋もれたりして辿り着く事すら出来なくなっている。北東部の郭群へは鉄塔保守用の道が延びていたが、こちらは時間が無かったので行っていない。

鎌倉時代から御薗宇城を本拠にして勢力を広げた平賀氏は、文亀3年に本拠を白山城に移すものの、尼子氏の西条侵入によってより堅く規模も大きい城郭が必要となり、大永元年(1523年)に頭崎城を築城して平賀弘保の嫡男である興貞が入った。
しかし弘保・興貞親子、更に興貞・隆宗親子は仲が悪く、弘保と隆宗が大内方、興貞が尼子方となり天文4年(1535年)から5年にかけて互いに攻撃をし合った。天文9年には大内方の毛利氏によって落城させられ、隆宗が頭崎城に入る。
天文18年(1549年)に隆宗が神辺城攻撃中に戦死した後、平賀氏の弱体化を狙った大内義隆によって小早川常平の次男である隆保を養子に押し付けられ隆保が頭崎城城主になるが、天文20年に大内義隆が陶晴賢に殺害された後も大内方であった為に、陶氏方についた毛利元就によって攻め落とされる。その後には平賀隆宗の実子である広相が頭崎城に入った。





左:薬師堂、右:夕暮れ



山を降りる際には薬師堂経由の登山道を通るが、道のキツさは登りと余り変わらなかった。麓に下りたころにはすっかりと夕暮れになっていた。

西高屋駅に向かう途中に御薗宇城の横を通ってもらう。看板こそあるものの、城域は藪化して中に入るのは困難だそうだ。



1日に4城というのはそれ程キツイ日程ではない筈なのだが膝をすっかり痛めてしまい、それからも2日間はまともに歩けなかった。
しかし一緒に城を回った既に60を越しているWさんは、翌日からも広島市周辺の銀山城、高松城、木の宗城といった強豪を攻められていたそうで、あれしきの事で膝を痛めるようでは城男としてはまだまだ甘いなと感じさせられた。というか、Wさんがすごいだけかもしれない。





戦果
	攻撃対象	4城

	うち 棄権	0城

			4城	攻略



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