備前・備中攻略記

平成14年9月28日


○前日まで

先月に一緒に北陸を攻めた窪谷さん(仮名)から、9月28日に出張で岡山に行くので一緒に城を攻めないかとのお誘いがあった。別に他にすることも無く、話に乗ることにする。
ところが、その約束をすっかりと忘れて、調子の悪くなった車を同じ28日にディーラーに修理に出すことにしていた。3日前に窪谷さんからの確認のメールで約束を思い出し、慌てて有給を取って車を修理に出しに行く。修理が長引くようだったらレンタカーでも借りなければならないなと心配していたが、何とか一日だけで修理も完了。
レンタカーは借りずに済んだのでほっとしていたのだが、今度は前日から雨の予報。雨が降れば山城は無理になるし、当日も降り続くようだったら館跡や陣屋ですらきつい。悪人二人が揃うとこういうものなのか。

9月28日の午前3時起床。雨は益々酷くなって殆ど土砂降り。といって今更中止するわけにもいかないので、ともかく準備を整えて土砂降りの中を西へと向う。



午前6時にJR和気駅着。雨は降っているものの、兵庫と違ってこちらは小降り。約束の時間まで1時間ほどあるので車で軽く仮眠を取る。それから買っておいたサンドイッチで朝食を摂り、7時8分の上りで来られた窪谷さんと合流。雨もどうにか上がったので、まず一つ目の北曽根城へと向かう。


北曽根城


左:松茸山の表示、右:登り口



和気駅のすぐ北にそびえる山が北曽根城。登り口である最上神社とその目印である和気富士寮を探したのだが、なかなか見つからない。裏通りに入り込んでやっと見つけたものの、何と松茸山で入山禁止。「強行突破しますか?」と伺ったものの「余計な摩擦は起こさないほうが得策」と言う事で、今回は諦める事にする。
入山禁止期間は9月から11月一杯までで、何とHPでもこの情報を表示しているらしい。調べてみると、
http://www2.ocn.ne.jp/~mfuji/
という和気アルプスのHPに表示されていた。城じゃないから情報に引っかかって来なかった。中国山地の山は松茸山が多いから、今後は注意が必要である。


たかが茸ごときに…と歯噛みしながら吉井川沿いに南下。乙子へと向かう。


乙子城


左:本丸、右:二の丸周辺



岡山ブルーライン西大寺ICの南側、吉井川のすぐ東の小山にある。現在城は、神社と墓になっており、登り口はこの墓へ通じる道が2本に神社の参道、それから史跡の為に付けた階段と4通りもあり、選び放題である。本丸は辛くも墓地化を免れており、疎らに生えた木々の間から一面の新田が見渡せる。また山には多くの蟹が住み着いており、当時この辺りが海であった事を偲ばせている。
宇喜多直家が弱冠16歳で初めて城主となった城である。当時はここまで海岸線が来ており、海側を押さえつつ、また上道郡に対する戦略的拠点であった。直家は5年程で乙子城を後にし、その後は舎弟の浮田忠家、忠家の後には城番が置かれ、その後は戦略的価値が薄らぐと共に廃城になったものと思われる。


西へと向かう。

砥石城


左:本丸周辺、右:出丸へと通じる道



山の北の麓に墓や碑の建っている場所があり、ここの登り口がある。しかし最近は余り人が来ていないのか、階段には雑草が生い茂り、雨露で裾を湿らせながら登る事になる。またやたらと蚊が多く、立ち止まると常時10匹近い蚊が周りを飛んでいた。タオルで叩きながらの登城となる。
麓から10分ほどで本丸。道はなだらかで足場もよく、雨が降っていても十分に登れる。本丸は木が生えていないので眺めが非常に良く、邑久町の平野が一望できた。大系に写真が載っている本丸東側の石垣を探してみたものの、最近積み直した石垣はあるだけで、当時のものと思われるものは見つからなかった。
南東側に伸びる尾根道で東側の出丸と繋がっているのだが、鉄塔から北への道が荒れていた為に、今回は諦める事にする。
また、この尾根の部分に東側へ降りる整備された階段があり、尾根から南東の妙義神社への道もよく整備されている事から、城の東側の谷からここへ通じる整備された別の登り口があったのかもしれない。

砥石城は宇喜多氏の本拠地の城で、宇喜多能家か、その父の代に作られたものと思われる。宇喜多能家は砥石城のすぐ西の峰の高取山城に拠っていた島村豊後守に夜襲され自害に追い込まれる。島村氏はその後有力国人となって勢力を広げるが、能家の孫である宇喜多直家に攻め滅ぼされてしまう。島村氏を滅ぼした後、直家は砥石城に舎弟の浮田春家を城主として入れるが、備前平定後は戦略的価値も薄らいで自然に廃城となったものと思われる。


やぶ蚊の襲撃に数箇所を噛まれ、ほうほうの体で車へと逃げ帰ったのだが、車に乗り込んだ一瞬の隙を突いて、車内に7、8匹の蚊が入り込む。程なく鎮圧したものの、10月にもなろうかと言う時期に、元気なものである。


県道28号線から西大寺経由で県道37号線を北上。途中スーパーに寄ってトイレ休憩、それに飲み物と虫除けスプレーを購入する。国道2号線(旧道の方、表示は確か国道250号線か何かになっていた)に入って西進。少し行った所を右折して浮田小学校へと向かう。

沼城(亀山城)


左:沼城本丸。右:二の丸。現在は畑



左:南東端の段差。恐らく道路の辺りからが沼だったのかもしれない。
右:西の丸の登り口。右の建物は小学校の体育館


沼城の絵図面



浮田小学校の裏手にある。東側と西側に分かれており、これが島のように沼の中に浮かんでいたらしい。本丸は東側の方で、南西部にある弁財天神社の階段を登ると本丸に出る。本丸周辺は公園となっており、また宇喜多秀家誕生の地という石碑が建っている。
二の丸は本丸の東側の一段低い所で、現在は畑になっている。城の周囲を回る道路脇は一段高くなっており、現在の道路の辺りまで沼になっていたものと思われる。

西の丸は、現在小学校の中にあり、1年前の大阪の事件もあったので入れないかと心配したが、誰が見ているということも無く、すんなりと入れてしまう。しかしカメラを抱えた不審者2名、見つかれば警察沙汰にも成りかねないので、さっさと写真を撮って引き上げる。
登り口は体育館の西側にあり、神社か何かの跡と、アスレチックのような遊戯施設がある2つの郭とで構成されている。

沼城は元々は宇喜多直家の舅である中山信正の居城で、永禄2年(1559年)に直家は中山正信を謀殺して沼城を乗っ取ると(浦上宗景の命によって殺したとの説もあり。看板はこちらの方)、この沼城を拠点に領土拡張を行った。
天正元年(1573年)に岡山城に居城を移した後は浮田春家が入り、関が原以後に廃城になったものと思われる。

先ほど購入した虫除けスプレーを満遍なくかけて城に入った筈なのに殆ど効果も無く、砥石城と同様にタオルで蚊をはたきながらの探索となる。備前の蚊は強力である。


国道2号線を西に進み、一度岡山市街に入って後、備中高松城を脇目に見ながら国道429号線を北上する。


冠山城


左:全景、右:一の壇へ上る階段



車を停める場所が無かったので、近くの法事と思われる車の列に割り込んで停車させる。
途中まで宅地、その奥の三の壇から一の壇までは竹林で、一の壇には冠山の戦いの慰霊碑が置かれている。大系の地図を見ると三の壇の西側には虎口があったらしいが、蚊を追い払うのに忙しくて、見るのをすっかりと忘れていた。
築城の時期、築城者共に良く知られていない。天正10年の高松城攻めの際の冠山の戦いで有名である。清水宗治の与力、林三郎佐衛門重真の篭る冠山城に羽柴秀吉の先陣の備前勢が攻め寄せたものの、守勢は怯まず、鉄砲等を撃ち掛けて攻め手を一度は退却させた。しかし鉄砲の火縄からと言われる失火で大混乱。その隙に加藤清正を始めとして討ち入り、城は落城した。
とにかくここも蚊が多かった。



足守陣屋


左:陣屋の堀、右:陣屋跡の公園



国道429号線を更に北上し、旧道に入ってから左折して足守川を渡る。武家屋敷等で観光地として売り込もうとしているので、駐車場には事欠かない。
駐車場から北西へ向かい、武家屋敷を通り越して小学校の裏手一帯が足守陣屋跡である。現在は陣屋の周りを囲む堀と、奥にある庭園跡しか残っていない。また同じ敷地内には木下うんたらという明治期の歌人の生家があったが、余り興味も無かったので誰だったか覚えていない。覚えていないというと、他にも江戸時代の有名な蘭医もここ出身で、やたらと幟が立っていたのだが、こちらも全く覚えていない。
秀吉の正室、ねねの兄である木下定家を祖とする、木下家足守藩の陣屋。以上。


そそくさと国道429号線を南下。途中誤って旧道に入ってしまった為に車幅いっぱいの道等を走らされたり、渋滞に引っかかったりと散々な目に遭いながら、国道2号線(旧道)を横断、それからどこを通ったか良く覚えていないのだが、ともかく早島へと向かう。


戸川陣屋


左:唯一残った堀と石橋、右手に見えるのは小学校の塀、右:碑のある家の塀



一本手前の道を左折してしまったので、旧規格の軽自動車でギリギリの道になってしまった。陣屋を目の前に曲がろうと思っても曲がれなくなり、思い余って邪魔な生垣にわざと車体に擦らせたところ、案外と枝が硬くて車体に無数の擦り傷がついてしまい、大いに凹む。
その上に、殆ど唯一残っている遺構が、写真の堀と石橋だけで尚も凹む。小学校を建てる際にもう少し配慮とか何か無かったのだろうか。ただ、よくよく見ると、古い時代の塀が所々に残っていたので、歩けるだけ歩いて車体の傷の元を取る。
戸川氏は元は宇喜多家の重臣だったが、達安の代になって宇喜多家のお家騒動に巻き込まれて徳川家康に預けられた。しかしその縁で関が原の戦いの折には東軍として参戦でき、功績によって2万9千石を与えられて庭瀬に居城を構えた。ここ早島の戸川陣屋は、達安の次男安尤が3400石で封じられた所で、明治維新まで13代続いた。

窪谷さんはここまでで、後はご褒美として、窪谷さん既済の城2つを回ることになる。うねうねと庭瀬へ。


庭瀬城


左:庭瀬城跡の神社、右、住宅地と一体化した堀



右の清山神社の方

住宅地の中に、突如と広い堀が現れる。何よりもその堀のすぐ傍まで住宅が張り出しているのが面白かった。洪水の時はどうなるのだろうと思ったが、現代の事だし、それなりに考えられているのだろう。
前出の戸川氏の陣屋である。以上。


撫川城


左:門、右:南西からのショット


左の神社のある方

今日の今日まで聞いたことも無い名前だったにも関わらず、やたら立派な石垣と水堀がある城だった。岡山も舐めたもんじゃない。
足守川の河口の水郷地帯にあり、別名「泥城」と呼ばれていた。現在も周りを田んぼに囲まれており、当時を面影を偲ばせている。
築城の時期は定かでないらしい。平安時代末期に平清盛の重臣、妹尾兼康もしくはその一族が居館として築いたと謂われている。その後、一時三村氏の持城となった後、毛利氏の対宇喜多の境目の城として重要な位置を占めた。天正十年(1583年)に羽柴秀吉に攻められて落城したものの、その際に頑強な抵抗をして攻め手に多大な被害を与えている。落城後は宇喜多氏、関が原以後は戸川氏の所領となり、すぐ東に庭瀬城が築かれた。しかし庭瀬城築城後も庭瀬城の一部として利用されていたようである。


時間も時間になったので、窪谷さんを岡山駅までお送りする。渋滞に巻き込まれたり、駅前で迷ったりして、危うく新幹線の時間に遅れそうになったものの、何とか無事に到着。
後は自分が帰る番なのだが、道に迷って国道2号線バイパスに出る事が出来ず、青看にしたがって走って旧道に回されたり、車線変更&別の主要道合流というどう考えても渋滞するだろうという無茶な交差点で30分も食らったりと、岡山市街を1時間もグルグルと回される。恐るべし、岡山。というか青看くらいちゃんと作っとけいやぁ。


戦果
	攻撃対象	9城

	うち 棄権	1城

			8城	攻略



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