水晶城は良い城、一度は来んさい

平成18年2月12日




水晶城の登り口




広島県の教育委員会の資料に、水晶城の詳細な図面が1ページにわたって載っている。
その密に描き込まれた等高線と、その間に挟まった無数の郭という縄張図の迫力に、思わず息を呑んでしまう。これだけの立派な縄張りを持つ城が同じ広島市内にあるというのに、未だ行った事が無いというのも口惜しく、西条遠征に行った際に西条在住のFさんに水晶城攻略を提案してみた。
するとFさんの高校の同期生の方が水晶城の近所の出身で、子供の頃には良く水晶城で遊んでいらして土地に明るく、幸運にも今回はこの方に水晶城を案内していただける事になった。



○2月12日

Fさんとは午前9時30分に五日市駅に集合、Fさんの同期生の方とは午前10時に城近くの神社にて集合、という話だった。しかし、事前に別の城跡を下見していたらついつい時間をオーバーしてしまい、Fさんとの待ち合わせ時間に15分も遅刻。更に神社には5分遅刻で到着し、いきなりの失態で凹んでしまう。


南側の旧県道沿いにある登り口へと回り込み、登山開始。



水晶城


左:本丸、右:二の丸(藪)



左:最南中央の郭、右:二の丸の南下の郭



左:本丸北東下の竪堀、右:本丸北下の土塁と堀切



左:本丸北下の土塁と堀切、右:北の郭群の土塁その1



左:北の郭群の土塁その2、右:本丸北下の堀切



左:最南東の門?、右:西側の谷、田んぼ跡と林の間に小さな川が流れる





旧県道の脇に登山口を示す杭が建っているので判りやすい。本丸までの道も良く整備されており、麓から15分程で本丸に至る。
本丸の北下の竪堀群や、北郭群の土塁と竪堀の組み合わせは面白いのだが、立ち木が邪魔で把握が難しい。郭の高低差もメリハリが利いている。
高大な城域を誇るのだが、整備されているのは本丸とそこに至る道だけである。藪を鉈で切り分けながら頑張ってみたが、北郭群も馬蹄形の真中の辺りで気力と体力の限界になってしまった。
ただ、この城は無指定で、地元のボランティアの方々によって整備されているだけであることを考慮すると、本丸まで立派な道が整備されているだけでも十分すぎるのだが、勿体無い。地主の問題もあるだろうが、何とか県指定くらいまで上げて、潅木の間引き等をして郭の観察をやりやすくして欲しいものである。
また山陽自動車道のトンネル工事によって一部の郭が削られている。しかし丸ごと削り取られる事を考えれば、この程度の破壊は止むを得ないだろう。(無指定だったのは、その辺の圧力があったのかもしれないが)

降りは南東へ出る道を進む。この辺りは田畑になっていたようで広い平坦地が階段状に連なっており、現在は竹林になっている。南端の大きな土塁らしき土盛に門らしき切欠きがあるが、発掘調査の結果を読んでいないので本当に門かどうかは判らない。
階段状の平坦地はそのまま東側の谷に緩やかに降りてゆき、防御上の弱点になっているが、東側の谷には田んぼの跡と小さな川があり、当時は湿地帯となっていて堀の役目を果たしていたのかもしれない。また谷の東側には臼山八幡宮が建っている。


源平合戦の折、源範頼方の城があったと伝えられている。文献に出てくるのは、永正5年(1508年)に主家が断絶して相続問題でもめていた厳島神領(佐伯郡)を、永正15年(1518年)に大内氏が直轄領とし、石道本城(水晶城の別名)に杉甲斐守を城番に命じたとみえるのが最初である。城の直ぐ下を走る街道は旧山陽道であり、また大内氏と敵対している安芸守護の武田氏の居城銀山城への最前線という重要な拠点であった。
しかし神領の大内氏による直轄地化に不満を持っていた友田上野介興藤は、大永3年(1523年)閏4月に大内氏に叛旗を翻し、武田光和と手を結んで佐伯郡内の大内側の諸城を攻め落とした。この時に水晶城も落城し、杉甲斐守は敗走中に捕まり殺害された。後をうけて大内方の小幡興行が水晶城に入るものの、同年11月に再び攻撃を受けて落城し、小幡興行は落ち延びた先で切腹する。
その後、友田興藤は大内氏と和解するが、天文10年(1541年)に尼子氏が吉田郡山城を攻撃したのに呼応して再び大内氏に叛旗を翻した。しかし今度は大内方に居城である桜尾城をあっさりと攻め落とされて切腹している。この際に水晶城も友田方に攻められ、城番として麻生左衛門鎮里の名が出ている。
大内義隆が陶晴賢に殺された後はそのまま陶方となっていたが、天文23年(1554年)に毛利元就が陶氏に叛旗を翻した際、佐伯郡に侵入した毛利元就に攻められて、麻生鎮里は降伏している。
その後、南西の廿日市にある桜尾城が佐伯郡周辺の拠点として重きを置かれるようになり、自然と廃城となったものと思われる。




広島県教育委員会の水晶城の紹介


有井城…跡

水晶城のすぐ南東にある有井城。県道のバイパス工事によって麓の郭と小山の半分を削られてしまう。
広島県教育委員会の有井城の紹介




Fさんの友人と別れ、Fさんと2人で沼田五日市周辺の攻城を続ける。遅めの昼飯を食べた後、伴まで北上。



伴東城


左:本丸?、フェンスの右は崖、右:西の郭



左:本丸東下の堀切、右:本丸東下の竪堀群



左:本丸南東下に走る大堀切と土塁、右:本丸東下の竪堀群



左:東側の造成場、消滅の危機、右:南東部は殆ど消滅




北西に伴北城、南西に伴城、伴城の更に南西に伴支城と、4つの城群で構成されていたが、伴東城以外は宅地化で全滅。伴東城も殆ど掘削されてしまい、一部の郭と堀切が残っているに過ぎない。
ただ、最高所(本丸?)の東下にある竪堀群や大堀切は良く残っており、この辺りだけでも公園化して残せないものかと思うのだが、直ぐ傍まで来ている開発の勢いからみると、堀切が残る事は不可能なように見える。

伴氏の居城の一つ。詳細不明。



広島県教育委員会の伴東城の紹介




山根城


左:丸子山の南の堀切、右:最北端の墓のある郭(6番の郭)



左:本丸の北側の郭(5番)、右:本丸(1番)



左:本丸南の郭の段差(2番と3番の間)、右:写真左下から右上に登り道がある





河内小学校の北西にある尾根が山根城である。
初め、尾根の北東側に回りこんでみたが登り道らしきものは見つからず、南側に回ると、尾根に向かって左下から右上に登る道を見つける。
尾根の最南端は墓場になっており、その裏から郭が北西に続くのだが、藪で侵入は難しい。鉈を振るいながらどうにか大堀切まではたどり着いたが、その先の丸子山に登る気力は無くなってしまった。大堀切の南側の郭には比較的良く整備された墓が一基建っており、堀切に沿って東側に下った道があったので、こちらから登ると楽なのかもしれないが、遭難しても怖いので来た道(藪)を戻る。

河内肥後守の居城といわれている。


広島県教育委員会の山根城の紹介




宮尾(滝の尾)城


左:西麓から、右:本丸



左:本丸の南東下の郭(案内してくれたおっちゃん)、右:墓地から城を望む




三和中学校の北西の小山が滝の尾城である。
登り道に関する情報が全く無かったので、家の前で竹を裂いていたじいさんが居たので聞いてみると、連れて行ってもらえることになる。
本来は中学校の北側の墓地から登る道があるのだが、現在は荒れてしまっているらしい。そこで南西側の斜面を直登する。土が柔かく足場が悪いが、比高が3、40mなので何とかなった。
頂上は藪。北西にある堀切は確認できなかった。降りは墓場の方向に行くが、こちらから登った方が同じ藪漕ぎをするにしても距離が短くて済むし斜面も楽である。

詳細不明。


広島県教育委員会の宮尾(滝の尾)城の紹介




茶臼山城


左:最高所(本丸)、右:最高所から東側(美鈴が丘、鬼ヶ城山)を望む



左:東に延びる尾根筋、右:中沢啓治の石板




城山中学校の西にそびえる山が茶臼山城である。
現在は公園化し、頂上付近まで得体の知れない石板が並んでいる。
頂上と、その南側と2ヶ所程に辛うじて平坦部が残っているが、遺構らしきものは何も無い。草むらに建つ石碑も三角点だった。ここから西へ尾根伝いに堀切と平坦地が何ヶ所かある筈だが、道らしきものが全く無いのと時間の都合で諦める。また南東の尾根の先端には向山城がある。



日も暮れたので、以上で終了。数は稼げたが、水晶城で時間をかけて端から端まで郭を渡り歩いた方が面白かったのかもしれない。



戦果
	攻撃対象	5城

	うち 棄権	0城

			5城	攻略



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