だんじりドライブ

平成17年9月18日〜19日




千早城二の丸に建つ楠木神社



南大阪というと山沿いに楠木正成関連の山城が点在しており、正成ファンとしては一度は訪れてみたい場所であったが、神戸に7年間住んでいたものの、一度も訪れる事が無かった。
それは大阪しかも南側は、バグダッドも真っ青な危険地帯であるということ。これまでに聞いた噂としては以下のものがある。

(1)赤信号で停車してしまうと周りを囲まれて身包み剥されてしまうので、赤信号でも止まってはならない
(2)車で走っていると猫や人が飛んできて、それを轢いてしまおうものなら慰謝料として膨大な額を請求されてしまう
(3)この辺りの住民は運転が荒く、マナーどころか信号等の道路交通規則すら守らない
(4)例えぶつかると判っていても、決して自分からは避けようとしない
(5)事故後、自分が悪くても決して認めない、謝罪しない、逆に脅してくる、仲間を呼ぶ、等
(6)住民の半数以上が堅気でない何かである

以上は冗談としても、道が狭くてややこしくて見るからに渋滞の多そうな地域に単身突っ込むのも面倒なので、一度も行く事もなく広島に帰ってしまった。

そんな折、今秋に予定されていた北九州4泊5日の遠征が、諸々事情の為に関西付近の2泊3日になってしまった。しかも2日目は河内・和泉。3日目も和歌山から天王寺までレンタカーを返す為に和泉地区を走行しなければならない。
果たして我々は無事に危険地区を走行できるのであろうか?乞う、ご期待。

とか書いていたら、9月26日に阪和自動車道で銃撃騒ぎがあった。やっぱりあそこら辺は危ないわ。



○9月18日

自分は知り合いの結婚式が被ってしまった為、2日目からの参加。前日の丹波での遠征を終えた窪谷さんと榊さんと午前8時に天王寺駅にて待ち合わせ、そこでレンタカーを借りて南大阪は無法地帯でのドライブへと望む事となった。

車は日産のモコ。運転は榊さんにお任せして自分はナビに撤することにした。

まずは国道25号線を東東南へとひた走り、生駒山地の麓に位置する恩智を目指す。朝早いということもあって、車もそれ程多くなく恩智付近までは普通に走行できたのだが、恩智付近になると途端に道が狭く、ややこしくなり、25000分の1やナビの地図にも出てこない道を行き来する事になった。しかも目印となるはずだった国道170号線の旧道、あれじゃ細すぎて国道だとは気がつかない。



恩智城


左:本丸?の西の段差、右:さらにその西側


左:北西側、右手前の畑も郭、右:現在は公園、西側の一段高い場所が本丸?




城の中心部は公園になっている。西側が一段高くなっており本丸かと思われる。ここに碑が建ててあるものの、土塁や堀といった遺構は存在しない。
この本丸?の西側は一段、更にその西はもう一段下がっており、丘陵の段差を上手く使って築かれた城であることがわかる。
一応公園ではあるものの駐車場といった洒落た物は無い。北から公園に至る道に路駐したが、可能なら電車等を使った方が良いだろう。

楠木正成に属し、楠公八臣の一人といわれた恩智左近満一が建武年間に築いたとされる。恩智左近が楠木正行と共に貞和4年(1348年)に四条畷で戦死した際に落城したと伝えられる。



国道170号線を南下する。本来なら白木陣屋を攻める予定だったが、ついでという事で高屋城へと寄り道する。途中、2人乗りで2人ともノーヘルメットの兄ちゃん達が赤信号を無視して走行しているのを目撃。さすが南大阪と感心する。




高屋城


左:古墳東部の環濠部、右:高校のグランド脇の段差


左:古墳南部の環濠部、右:安閑天皇陵





安閑天皇陵とその一帯であるが、はっきりと遺構が残っているのは天皇陵の部分のみである。ただ地形として残っている部分も多く、東隣にある高校とに大きな段差が見られた。天皇陵なので本丸跡には立ち入り出来ない。

15世紀末に畠山義就もしくは基家、政長が築城したといわれている。初めは畠山家の家督争い、後には三好一族の内部抗争等で城主が30人近くも入れ替わっている。最終的には天正3年(1575年)に織田信長に攻められて落城し、以後廃城となった。



県道27号線へ移動し南下。
道を間違えて右往左往するが、何とか発見。県道27号線沿いのローソンの北側の道を東へ。




白木陣屋


左:南隅の石垣、すっかり草に覆われている、右:東の石垣を南から


左:上部には辛うじて石垣の頭が見られる、右:敷地は今は畑





大系には東面の石垣の写真が載っているが、現在ではその石垣は草に埋もれてしまっている。石垣の為だけに来たといってもいいところに、この仕打ちは無いのではないだろうか。敷地の東半分は畑に、西半分は民家になっている。南側には長屋門が残っている。

伊勢国神戸藩の飛地である石川郡を支配する為に設けた陣屋。



別の県道を葛城山系の山の麓へと進む。



平石城


左:本丸北部分、右:本丸の段差を南から


左:本丸南部分、右:本丸西側の平坦部(左下)と本丸(右上)




山の東を南北に走る旧道沿いに建つ民家の間に登り口の小さな看板がある。当然に駐車スペースなど無いので南の広い道脇に駐車して歩いた方が迷惑が少ない。
本丸まで10分ほど。道は良いが、本丸の平坦部以外は雑草や雑木が生え放題である。府指定史跡なのだからもう少し気合を入れてもらいたい。

善成寺の大檀越平岩氏の居城。元弘の乱(1331年)の際に楠木氏と共に挙兵する。延文5年(1360年)に畠山国清に攻め込まれて落城する。



県道27号線を南下。建水分神社を脇に眺めながら県道705号線に入り南下。千早赤阪中学校のグランドを経由して裏手にある下赤阪城の碑へと向かう。




下赤阪城


左:碑の前、右:碑の前の展望台


左:赤阪の棚田、右:展望台を南側から




正確な位置が不明な為、写真を撮るにしても碑の辺りしかない。何人かカメラを片手にやってきている観光客が居たが、どうも城でなく棚田を撮影しにきていたようだ。愛国精神に薄い輩だと軽蔑するも、確かに棚田も綺麗である。

元徳3年(1331年)に後醍醐天皇が笠置山に篭った際に楠木正成が急造するが、肝心の後醍醐天皇は捕らえられ、正成は護良親王と共に下赤阪城に立て篭もる。程なく鎌倉方に包囲され落城。正成は護良親王と金剛山中へと落ち延びる。翌正慶元年(1332年)に正成は再起し、鎌倉方の湯浅定仏を奇襲して下赤阪城を奪回。翌年には再び鎌倉方に攻められて落城するが、千早城に篭城している間に鎌倉幕府そのものが滅亡してしまう。
湊川で正成が戦死した後には正儀らが下赤阪城に拠った。延文5年(1360年)に龍泉寺・平石両城が落城した際に正儀もこの城を捨てて金剛山中へと退いた。



県道705号線を千早方面へと向かい、途中で左折北上。更に脇道に入って南西に進むと、一の木戸の真下に駐車場と看板がある。



上赤阪城


左:本丸、発掘中、右:本丸と本丸南側の段


左:本丸南端、ここだけ奇麗に刈られている、右:二の丸、木が切り払われて雑草が群生中


左:算盤橋付近、右:一の木戸




頂上まで20分弱。道は良いが、どうも1〜3の木戸辺りは後から郭を掘り下げて登山道を付けたような感じがする。それともこういう構造の郭なのだろうか(一の木戸の写真参照)。
本丸の北と南端は切り払われているが、本丸の残りの部分は潅木(というか観賞用の木か)が生えていて見通しが悪い。二の丸は木が切り払われて雑草が繁生していて入れなかった。発掘の為の一時的な処置であると信じたい。

正慶元年(1332年)に正成は再起して下赤阪城を落とし、その後本格的な鎌倉方の来週に備えて上赤阪城や千早城を中心とする城塞群を築いた。翌年には鎌倉方の大軍が上赤坂城を包囲する。初めの内は良く防いだが南方の本宮砦や南東の猫路砦を落とされ、搦め手からの攻撃を受けて防戦10日にして落城した。



県道705号線に戻って西進。ひたすらに山だけで何も無い。車で走っていても嫌になるのに、700年前の鎌倉方の寄せ手は更に嫌だったに違いない。



千早城


左:四の丸から西を望む、右:四の丸、後にひかえるのは金剛山


左:三の丸付近、右:二の丸に建つ楠木神社


左:本丸は立ち入り禁止、右:四の丸の売店と婆さん




麓の有料駐車場(1回600円)に車を停めて、四の丸へ直通の石段を登る。500段以上もあり、足に来る。15分程。
四の丸から二の丸までは神社として整備されており、平坦部以外の遺構は残っていない。その上に本丸は神域として立ち入り禁止となっている。これは余りにも酷い。
金剛山から降ってきた登山道が城の東の堀切で北に折れ、城の北側の谷へと回って行っている。距離はかかるがこちらの登山道を利用して登ってきた方が足の為には良いかもしれないし、金剛山までロープウェーで登っておいて、蜿蜒とここまで降ってくるのも手である。
四の丸には商店が建っている。80近い婆さんがやっているが、どうやってここまで登ってきているのか聞いてみた所、麓から商品を担いで毎朝登ってきているのだそうだ。記念におでんを食べたかったのだが、午後2時を回っていたので片付けられてしまっていた。他に食べられるものを探したが、蓋が開いて干からびたカップ麺の中にクッキー等があったが、昼には物足りないので止めておく。代わりに菊水紋と非理法権天の手ぬぐい(450円)を購入する。

正慶元年(1332年)の正成再起の際に上赤阪城などと共に整備された。上赤阪城の落城後に千早城も鎌倉方に包囲されるが、100日余り持ちこたえ、その間に鎌倉幕府そのものが滅亡してしまう。
南北朝の戦乱時にも楠木氏の詰めの城として利用されるが、明徳3年(1392年)に畠山基国に攻められて落城する。



朝から食べていなかったので昼食を摂ろうということになる。駐車場の脇に安っぽい売店兼食堂のような所もあったが、どうせ食べるなら美味しいものが食べたいという事で、少し離れた所にある豆腐料理屋を主張。しかしその店の駐車場は、店の駐車場にも関わらず600円の料金を取る事が判明し止めておくことにする。こんな事なら、初めに停めていた駐車場脇の安食堂で飯を食べて置けばよかったと後悔するが仕方が無い。諦めて夕食まで我慢することにして烏帽子形城へ。





烏帽子形城のある河内長野市街へ入ったところ、禿山が見える。ドキッとしたが、烏帽子形城の南にある別の山だった。烏帽子形城も公園化していなかったら、この山のように消去されてしまっていたかもしれない。



山の南麓が烏帽子形公園になっている。ここに車を停めて、散策道を登る。5分ほどで頂上。


烏帽子形城


左:本丸の平坦部、右:本丸腰郭から南の空堀


左:南東部の空堀、右:同左


左:南西部の空堀、右:東部の郭群、なだらか




南北に長い郭群と、その間の深い空堀が走るという他に余り見ない特徴を持つ。元はもっと浅かったものが長年の侵食で深くなったのかはわからない。(この辺りの山の土は柔かい)

正慶元年(1332年)に赤阪城の出城として楠木正成が築城したといわれているが、平家物語で源行家が篭った長野城がここであった可能性もあるといわれている。
14世紀後半は南北朝の、15世紀以降は畠山氏の内紛の舞台として幾度となく戦場となる。16世紀末には橘氏の居城となり、その後廃城となる。



本来ならこの後に雨丸・土山城へと行く予定であったが、午後4時を回り時間的に厳しくなってしまい、更に千早城で気力と体力を搾り取られてしまったので諦め、代わりに烏帽子形城から程近い狭山陣屋へ行く事になる。


国道310号線を走っていると、あちこちでだんじり祭りの準備をしているガラの悪そうな青年達がいる。組の幹部に言われて嫌々やっているのかとも思うが、案外と自主的に盛り上がって頑張っているのかもしれない。でもやっているのは殆ど族のメンバーみたいなのばかりである。



狭山陣屋


左:狭山池の湖畔、右:遊園地跡地に建つマンション





上屋敷と下屋敷と2ヶ所あり、下屋敷は狭山遊園地になっていた。それが今回行ってみると狭山遊園地も潰れて、マンションが建っていた。周りも再整備されて跡形も無い。上屋敷跡地は行っていないので現状は不明。

後北条氏の血筋である狭山藩の北条氏信が寛永14年(1636年)に上屋敷を、また氏朝が宝永6年(1709年)に下屋敷を築いた。狭山藩は明治維新まで続いた。





以上で18日の予定を終了し、戦闘後前進で和歌山まで進み、和歌山市駅の近くにあるビジネスホテルで一泊。
夕食は和歌山市駅地下のレストラン街のちゃんこ鍋居酒屋。ちゃんこ鍋を中心に、鯨の竜田揚げやマグロの刺身等をいただく。ビールを飲みながら今日まわった城の印象や反省、戦国時代の馬に関する話をする。
その後に直ぐ横の「百番」というラーメン屋で和歌山ラーメンを食べる。和歌山ラーメン未体験の窪谷さんと榊さんを前に散々と「和歌山ラーメンはそれほど美味しくない」だの「脂っこすぎてくどい」だの言っていたのだが、ここのラーメンはあっさりとして美味しかった。しかもここの店の親父が面白い人で、コップに生ビールを注いで「お水です」と言いながらサービスしてくれた。機会があれば空腹時にもう一度行ってみたい所である。


ホテルに戻り、翌日の作戦会議とNPOの今後について話し合う予定だったが、翌朝午前5時半起床と言う事になったので、午後9時前には散会する。
同室の榊さんは9時半頃からメガネを掛けたままで寝入ってしまった。起そうかと思ったが折角気持ち良く寝ているところを起すのも何だなと、脇で007の映画を見ていた。午後11時頃に一度起きられたので、本格的に消灯。



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