苦難の北九州遠征 〜坂と汗と雪と風と〜

平成17年12月9日〜12日



高祖山城にて 熊も怖いが蜂も怖い




河内遠征の後、窪谷さんからメールが来た。
「木島孝之氏の『城郭の縄張り構造と大名権力』を読んだら、北九州に行ってみたくなった。次は北九州に行こう。丁度マイレージが東京福岡往復分程貯まったところだし」
実に嬉しいお誘いだった。

1年前から骨董の陶器にはまっていた。特に唐津焼。古唐津は東京の美術館等に収まってしまっているが、現代の陶工の窯元をまわってみたいと思っていた。福岡起点だと、前日に唐津入りしてから福岡周辺の温泉地で一泊といった事も可能だ。なんとタイムリーな提案をしていただけたことだろうか。

地図を調べて、古湯温泉を見つけて民宿を予約。ここなら温泉が掛け流しだし、福岡市街まで2時間程で丁度良い。



○12月8日

午前7時に広島を出て、午前11時過ぎには唐津市に入り、店を4軒まわって昼飯にウニ丼を1杯、それから窯元を3軒を回り、更に岸岳城と波多城の登り口を確認してから古湯温泉に移動して一泊する。泊まった民宿は安い割に良い宿だったが、精神的に不安定になって余りぐっすりと寝付けなかった。



○12月9日

午前7時に起床。朝湯に浸かってから朝食をいただき、午前8時過ぎに出発。福岡市街に入ってからは通勤渋滞をカーナビで確認しながら迂回を駆使して姪浜駅へと向かった。
事前の約束では窪谷さんとは姪浜駅前に午前10時30分頃に集合ということになっていたが、午前9時半頃には姪浜付近に到着してしまった。そこで下見も兼ねて、生の松原にある元寇防塁を見に行く事にする。



元寇防塁(生の松原)


左:もう少し先に石垣があったらしい、右:松林内のかすかな膨らみ




駐車場が無い。一応国指定遺跡なのだが、この扱い。
近所をぐるぐる回ってみたが、駐車禁止区域の比較的広めの道に路駐するか、セブンイレブンの駐車場に無断駐車するかしかない。前者を選んで浜へ走る。
石塁が見つからない。東側かと走ってみたが、あまりに広い。走り疲れたのとレッカーが心配になったのとで、石塁を拝む前に引き返してしまう。後から調べると石塁は浜のだいぶ東側にあったようである。



車に戻り、姪浜駅へ。
博多で車を運転するのは初めてだが、歩行者や自転車が自動車の存在を無視して動いていたのには驚いた。頼むから信号のある大きな交差点で、信号無視をして渡るのだけは勘弁して欲しい。

駅から500mくらいの所で駐車場を見つけたのでそこへ車を停めたのだが、駅のド真ん前にも駐車場がゴロゴロしているのを見つけて吐きそうになる。どうも博多の町は自分には合わないようだ。

駅に着いたのが10時過ぎ。待ち合わせ時間までボォ―っとしているのも芸が無いので、駅の近くにある西区役所で元寇防塁の下調べをしておく。先ほどの生の松原で痛い目に遭っているので、予め駐車場完備の防塁跡を尋ねてみると、大規模な石塁跡の中では今津の防塁だけしか駐車場が無いらしい。ただ今津は柑子岳城のすぐ近くなので、今津だけ落としてそのまま柑子岳に行くことにすればよいだろう。


10時40分頃に窪谷さん到着。早速事前調査の結果を報告したのだが、
「せっかく深江岳城を外して時間も余裕があるのだから、なるべく多くの元寇防塁を回ろうじゃないか」
と言われ、慌てて駅前の看板で他の元寇防塁を調査するはめになる。駅の北側に2ヶ所ほど点在している防塁跡が見つかったので、まずはそこへと向かうことになった。




元寇防塁(姪浜北団地の北側)


かすかに土が盛り上がっているのが石塁跡らしい





団地の道路に車を停める。石塁は無く、ただ地面が盛り上がっているだけである。ただこれだけの遺構にもかかわらずこれだけ気合を入れて保存してあるのは喜ばしい事である。



元寇防塁(小戸公園内)


ここもかすかにしか土が盛り上がっていない


小戸公園の駐車場の南東50m程の所にも防塁跡がある。ここも石塁は無く、辛うじて地面に起伏がある程度で、看板と碑が無ければ気が付かずに通り過ぎてしまうだろう。気合を入れて防塁を端から端まで回るのならともかく、わざわざ立ち寄る程の事は無い。






今宿の防塁跡の地図、参考まで。駐車場は無いとのこと





元寇防塁(今津、長浜海岸)


左:海岸、右奥の山は柑子ヶ岳城、右:石塁跡



左:中央に行くに従って立派になっていく、右:一角だけ掘り下げて積みなおしている



階段はあるが立ち入り禁止



それ程高くない石塁





一番規模も大きく、駐車場等も一番整っている。中央寄りと西端とに駐車場があるが、中央寄りのところは狭いので台数が停められない。ただ復元跡は中央寄りなので、時間が無い時は中央寄りの方が便利である。
松林の中に、石塁の頭が長々と並んでいる。中央寄りの一部分だけ周りの砂を掘り下げて石の詰み直しをしている。見に行くのならここだけで十分かもしれない。


そのまま直ぐ西にある柑子岳城へと向かう。




柑子岳城


左:山頂から福岡市街地方面(南東)、右:本丸



左:本丸と二の丸の間の一段低い郭、右:二の丸



左:登山道途中の平坦地?、右:駐車場脇の登り口









山の南西部に未舗装ながらも駐車場が作られている。現在駐車場付近を通る道路が拡張工事されているので、もうしばらくすると楽に寄せられるようになるかもしれない。

麓から本丸まで徒歩20分。傾斜がきついので足を痛めないように注意が必要。
本丸は展望が開けており眺めがいい。南端に薄っすらと土塁の痕跡が残っている。北側は三段に下がっていっており、北端からも展望を楽しめる。
本丸から平坦地を一つ挟んで南側に二の丸がある。これといった遺構も無く、また木が茂っているので所々からしか眺めが利かない。後に出てくる高祖山城と同様に、本丸が上城、二の丸が下城と呼ばれている。

築城年代は定かではないが、天文元年(1532年)に柑子岳城を大内氏が乗っ取り、天文3年から4年にかけて改築したと記録に出てくる。天文7年(1538年)には大友氏が攻め取り、以後大友氏の志摩郡支配の拠点の一つとなった。永禄年間(1558年〜70年)には大友義鎮(宗麟)の命で改築され、大友一族である臼杵新助親連が入る。臼杵氏は高祖山城の原田氏と再々合戦を行ったが、臼杵進士兵衛鎮氏の時に原田氏に逆襲されて滅ぼされてしまう。その後廃城になったとも、再び臼杵新助が入ったともいわれている。



続いて真南にある高祖山城へと向かう。

午後1時も回ったので、500円の定食屋で昼飯。案外と美味かった。




怡土城


左:土塁の上の部分、右:土塁、かなり大掛かり



怡土城の推定範囲と高祖山城


高祖山の西斜面から麓一帯にかけて、怡土城跡が広がっていたらしい。現在では麓の土塁の一部と、山の尾根上に櫓の礎石跡等が残っているだけである上に範囲が広すぎてこれを全て見てまわるわけにもいかないので、高祖神社への通り道にある土塁だけを見に行く事にした。
既に1000年以上も経っているので大して遺構も残っていないのかと思っていたが、数メートルの高さの土塁が残っており、驚かされた。これだけ立派なら時間をかけて他のも回れば良かったかと後悔するが、今日の予定は既に埋まっているので余り時間はかけられない。土塁に登って写真を数枚撮っただけで次へと向かう。

続日本紀によると、天平勝宝8年(756年)に大宰大弐だった吉備真備を担当官として築城が開始され、神護景雲2年(768年)に完成したとある。築城の目的は不明だが、続日本紀の前後の記事から推測して、当時緊張が高まっていた新羅との関係に対する軍事的拠点として築かれたのではないかといわれている。






高祖山城


左:登山道途中にある怡土城の建物の礎石群、右:上城(本丸)、右側の膨らみは東側の土塁



左:上城(本丸)西側の段々、右:上城(本丸)北下の竪堀



左:上城(本丸)北下の郭の石垣、右:上城(本丸)南東下の郭の石垣



左:下城を南から、右:下城にある崩れた石垣らしき石群




高祖神社の駐車場(社殿の南西が一番上の駐車場である)に車を停めて、高祖山への登山道を登る。道は判りやすいが登っていくに従って傾斜が急になり、特に尾根線に取り付いてからは足場も悪くなり両手が必要になってくる。事前の調査で登城記録を調べた所、殆どの人が東側の野外活動センター裏から登っているので不思議に思っていたのだが、どうやら東側から登った方が道が良いのではないかと思われる。駐車場から下城まで比高300mで徒歩35分。久しぶりの悪路で本当に嫌になる。

頂上は、主に其々が南北100m程の下城と上城(本丸)、そしてそれらを繋ぐ同じく100m弱の郭群とで構成されている。これらは整備が行き届いており、上城(本丸)では木も切られてある程度展望が利くようになっている。
また他に上城(本丸)の北側の斜面下には郭群とそれを取り巻く石垣や竪堀、土塁が、そして上城の南西側の斜面下には郭と石垣があるが、こちらは大分荒れており、入り込む事は出来たものの写真を撮るのが難しかった。上城の北東側には堀切が幾つかあるようだが、藪になっていたために入れず確認はできなかった。

怡土城の土塁を利用して建長元年(1249年)に原田種継が築いたといわれている。原田氏は一貫して反大友氏の立場をとり、大内氏の勢力が九州に及んでくるとこれと結んでいたが、天文22年(1553年)には大内氏を滅ぼした陶氏と大友氏の連合軍によって高祖山城は攻められれ、落城している。陶氏が毛利氏に滅ぼされた後には毛利氏と手を組み、柑子ヶ岳城の臼杵氏や佐賀の竜造寺氏と争っている。秀吉の九州征伐時には島津氏と組んであくまでも抵抗したが、天正15年(1587年)に小早川隆景の1万の軍勢に包囲され、落城した。その後原田氏は流れ流れて保科家に仕え、会津に移っている。



高祖山城を降りた時点で午後4時を回っていたので、大急ぎで波多江城へと向かう。高祖山から北北西方向に約4km。



波多江城


左:東側、右:北側の辺



左:土塁の角とその内側に堀らしき溝が、右:西側から全体を望む





福岡前原道路の高架のすぐ北にある。丸々民家になっており、道路側から土塁を無断で撮影をしていたら住民に怪しまれてしまう。この物騒なご時世に当たり前だ。
東と北に土塁があるのは確認できたが、西と南は確認できなかった。

原田氏の一族である波多江種敦の居城といわれている。



デジカメでも光量が足らなくなってきたので、舞岳城へと急ぐ。




舞岳城


左:頂上付近、広場と慰霊碑、右:高祖山城を望む(東方向)



左:すっかり公園化、右:オリジナルか判別できない地形





前原駅の真南にある笹山公園が舞岳城である。公園には10台程の駐車場があるので車での攻略も可能である。
山の殆どが公園として手を入れられており、遺構もへったくれもない。山の規模が大きいだけに残念である。

原田氏の属城で、永禄年間(1559年〜70年)には波多江鎮種が守り、そのあとには原田氏の家老である笠繁種が入ったといわれている。



以上で本日の予定を終了し、唐津市へと入る。

唐津駅前のビジネスホテルに一泊。LANが引かれている上に大浴場があって5000円というのは嬉しい。
近くの回転寿司屋に夕飯を食べに行くが、地方色の全く無い寿司屋でがっかりする。チェーン店でも地元のネタを用意するとかしてくれればよいのに。
せっかく九州まで来ているので、駅の建物内の店で佐賀ラーメンを食べる。濃い味で有名な佐賀ラーメンの割にえらく塩味の薄いあっさりとしたラーメンが出てきて、これまたがっかりする。
駅の中の店で買い物をし、部屋に戻って翌日の作戦会議も兼ねて酒を飲む。1階にある大浴場で風呂に入り、あまり遅くならない内に就寝。




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