伊予讃岐遠征 リターンズ

平成22年1月9日〜11日


金山城の堀切、南予の山も険しい



○1月10日

当初は午前7時から回る予定だったが、日の出が遅くて光量が足らなかったので15分遅らせて出発。




樺崎砲台


左:復元された台場を西から、右:南から



左:裏手(東側)、右:台場の前面




宇和島市街の北西、市立歴史資料館の北側に復元された台場がある。周りは道が広く駐車スペースは十分にある。復元されているのは5基あった砲座の内の1基のみだが、形は明治期の堡塁をほうふつさせる。

安政2年(1855年)に築かれた台場。



北宇和島から県道57号線を北上、務田から県道31号線に入って更に北上。成妙小学校を目指す。




金山城


左:主郭、右:主郭の北下の郭



左:主郭の南側を北から、右:主郭の南端の土塁



左:主郭南端からの西方の眺め、右:主郭の南下の郭



左:主郭の西下の郭、右:同左の更に西下の郭、アスレチックっぽい



左:最北西端の段差と堀切、右:登り口




成妙小学校の南側に駐車場っぽいものがあり、そこから学校の北の裏手に回ると池の奥に登り口がある。尾根筋までは昔の峠道を登り、尾根沿いに南東に登る。かなり急な斜面があるが、ロープが付けられているので多少とも登りやすい。ただ別な斜面のアスレチックみたいなタイヤは登りづらかった。主郭の周辺は良く整備されているが、端の郭は藪になりつつある。主郭には城主今城氏の末裔によって建てられた看板もある。

今城氏の居城。西園寺十五将の一人、今城能親の嫡子である今城能信は成妙郷の九ヵ村4700石を領し、天文15年(1546年)に三間地方に侵入してきた大友方を土居清員、深田竹林院真清、中野通宗らと共に撃退したといわれている。



県道31号線を再び南下し、県道283号線を東へ。金山城から2キロしか離れていない。




大森城


左:主郭西側、写真の右手に円形窪地がある、右:主郭から西方向を望む



左:主郭東側、右:主郭東端の土塁(もしくは石塁)



左:主郭東下の郭の南側の石塁?、右:主郭東下の郭の東側の石垣



左:右上写真の南面の石垣、右:同左東面の石垣



左:更に東下の郭、右:同左の更に東下の郭



左:更にもう一つ東下の郭、右:同左の郭の東端の石塁



左:主郭のすぐ西下の郭、右:主郭西下の郭群の一つ



左:主郭西下の郭群の一つから一つ東上の郭を見上げる、右:登り口に通じる道と大森城




三間の中心部の北東、標高315mの山が大森城である。周辺は道も狭く、今回は近くの住人の方に断ってゴミ置き場に車を置かせてもらったが、県道付近に置いて歩いた方が良いだろう。
山の南西にある集落の奥の家の裏手を周り、梅林の間を進んでいくと墓地の裏手に登り口がある。登山道は尾根を一気に登るのでかなり辛い。愛媛県中世城郭跡分布調査報告書にある縄張図には描かれていないが、主郭の西下にも4ヶ所の郭がある。
主郭の東下の郭には石垣や石塁?が良く残っている。また東側の郭群の東端に石塁がある。主郭の東端にも土塁がある。
また主郭には内径約1.5mの円形窪地がある。周囲がかすかに盛り上がっており、井戸跡というよりも戦争中の見張所か銃座のような感じである。ただ結局何なのかは不明。

西園寺十五将の一人、成妙郷五ヶ村2600石を領していた土居清良の居城。



再び県道283号線に戻り東進。大森城から南東に1.5km程しかない。




岡本城


左:東の郭に建つ鉄塔、右:鉄塔の郭から主郭方向を



左:鉄塔の郭の西上の郭の東側、右:同左から鉄塔の郭を見下ろす



左:鉄塔の郭の西上の郭の西側、右:主郭の東端



左:主郭中央部付近の倒木、右:主郭西端の土塁(もしくは櫓台)



左:主郭西端土塁の石垣、右:主郭中央部の段差



左:鉄塔の東下の郭、右:同左の石垣らしきもの




予土線ニ名駅の南東約1km弱の標高225mの山が岡本城である。東麓の集落の奥から鉄塔道が山頂付近に建つ鉄塔まで通じている。ただ集落には駐車スペースが無く、これまた近くの住人の方に断って車を置かせてももらった。大森城と同じく県道脇に車を置いて歩いた方が良い。
鉄塔までは鉄塔道があるので比較的楽に登れるが、それでも鉄塔道としては狭い部分もある。鉄塔のある郭から奥は荒れていて、鉈鎌が必要だ。特に主郭の中央部付近に派手な倒木があり、通路を開くまでに時間がかかった。所々に石垣が見受けられるが、鉄塔の東下のものは鉄塔建設の際に出た瓦礫かもしれない。
麓の人の話によると、城跡から焼けた米が出てきたらしい。

5300石を領していた河野通賢の居城。河野通賢は高森城の城主も兼ねていた。天正7年(1579年)に長宗我部勢7000騎に攻められ、内通もあり一度は落城するものの、高森城の河野通賢と大森城の土居清良がすぐに反撃し、これに西園寺十五将の津島通顕、法華津前延、今城能完、竹林院実親らが加勢した為に長宗我部勢は敗走した。



県道283号線を更に南西へ。




高森城


左:主郭の南西端、右:同左から西方向を望む



左:主郭を南西から、右:主郭東側の土塁



左:主郭の土塁、右:同左から南東下の郭を



左:主郭北下の郭、右:主郭南西下の郭の土塁



左:主郭の南西下の郭から主郭方向を、右:同左郭の西端の石垣



左:石垣を南西下から、右:一部だけ綺麗に積み残っている



左:石垣から西下の郭を、右:同左の郭の西下の竪堀?もしくは採石跡



左:西下の郭群の段差、右:郭群西端の郭の土塁



左:最西端にある堀切、右:同左の北側に作られた炭焼の窯跡



左:堀切から郭群を見上げる、右:採土場から溜池、城山を望む




三間町兼近の集落の北東奥にある3つの溜池の内、真ん中の溜池の土手を渡ると採土場の跡があり、この奥に登山道の登り口がある。一応採土場跡まで車で入れるが、道は狭いので自信が無ければ県道脇に置いて歩いても良い。登り口から山頂まで20分くらい。
郭と郭の段差が大きく、メリハリが利いている。ただ余りに急で主郭の東下の郭群には降りる事ができなかった。また一部に石垣が残っているが、特に西の尾根上にある一部積み残っている石垣が面白い。また最西端にある堀切は良く残っている。

河野氏の居城。河野氏は中野殿とも呼ばれていた。天文15年(1546年)と永禄3年(1560年)には大友氏、永禄8年、同9年、そして天正7年(1579年)には長宗我部氏に攻められるものの、いずれも撃退に成功している。



県道283号線を更に南東へ。午後2時近くなっていたので近永のスーパーで惣菜などを購入して昼飯にする。ここから国道381号線で西進して松丸の町の南に位置する河後森城を目指す。




河後森城


左:西第十郭の北にある復元門、右:同左郭の復元建屋



左:西第十郭の東側の復元土塁、右:同左南下にある堀切



左:西第十郭から南西方向を、右:西第十郭を西上の郭から



左:本郭へと続く郭群、右:西第三郭から第二郭を



左:堀切、右:西第二郭から本郭を



左:本郭、右:本郭から西第二郭



左:本郭から北を望む、右:本郭から南東方向、右が西第十郭、左が新城



左:本郭から東郭群を、右:東第二郭から本郭を



左:東第三郭、右:東第四郭



左:古城(奥)と東郭群(手前)との間の堀切、右:堀切アップ



左:堀切を南から、右:掘切を古城側から



左:古城、右:新城を北から



左:新城、右:新城の発掘現場



左:新城の南下の郭、右:新城から北西方向を、左下が西第十郭、右上が本郭



左:馬蹄の内側の底、右:底から斜面を



左:馬蹄内部にある水場、右:馬蹄内部から南の風呂ヶ谷方向(馬蹄の開口部、駐車場がある)を




2日目のメインエベント。馬蹄形の尾根上に郭が連なった、何とも奇妙な山城である。また発掘と整備が進んでおり、相当に見ごたえのある城であったものの、我々以外誰一人として見かけなかった。
連なった郭の間には所々に堀切が設けられているが、防御施設は余り見当たらない。馬蹄形の内部に入られると水の手を押さえられてしまうので、馬蹄の出口にあたる風呂ヶ谷辺りに木戸でも設けて防御していたのだろうか。

西園寺十五将の一人で、16500石を領していた渡辺氏の居城。ただ渡辺教忠は土佐の一条氏からの養子である為に一条氏に近く、一度は西園寺公広に攻められて人質を出している。一条氏に代わって南予に進入してきた長宗我部氏に対しては良く戦ったものの、家臣に河後森城を追い出されてしまったといわれている。



一度近永に戻って国道320号線を北上、国道197号線から県道2号線に入り、三滝山へ。




三滝城


左:主郭の西側、右:主郭の東側



左:更に奥、右:主郭の東端



左:主郭の東三分の一の位置から西を望む、かなり東西に長い、右:主郭の西下の郭



左:主郭の西下の郭、右:同左と主郭との段差



左:南を望む、山深い、右:三滝神社




三滝山の北下の鞍部に建つ三滝神社までは一応車で行ける。が、東回りも西回りも道が狭いので注意。三滝神社からは10分ほどである。
やたらと東西に長い主郭と、その西下の郭は草が刈り込まれて整備されているが、それ以外の郭は藪になっていて入れない。城の南を走る県道からは比高400mを越す落差がありかなり険しいものの、北の鞍部に建つ三滝神社からは比高も80m程しかない。

西園寺十五将の一人、紀氏の居城。元々紀氏は甲ヶ森城を本城としていたが、紀実平が永享年間(1429年〜41年)に改修して三滝城に本城を移した。その後、天正10年(1582年)前後に長宗我部氏に何度か攻められ、落城している。



時間があれば甲ヶ森城も攻めようという話があったのだが、午後4時半を回ってしまったのと、狭い山道の運転で神経が参ってしまったので、泣きを入れて三滝城を本日最後の目標にしてもらう。




国道197号線に戻り、大洲へ。
ホテルにチェックインし、ホテル近くの「弁慶」という焼き鳥屋で夕食。大洲名物というわけではなかったが、安くて美味しい店だった。

午後10時過ぎには就寝。





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