伊予讃岐遠征 1日目

平成21年1月10日〜12日



黄峰城




本来なら年末に九州遠征だったはずが、ごたごたで窪谷さんの都合が取れずお流れ。ということで年明けの三連休に新たに遠征を立ち上げることとなったが、時間も短いことだし近場ということになり、またも四国となった次第。前回は阿波と東土佐だから、今回は西讃岐と北伊予辺り?てなわけで、レッツラゴー!




○10日

午前8時起床。前日までの天気予報では雪で降水確率50%だったが、曇り。午前10時過ぎに合流地点である坂出駅に到着するが、この頃には青空すらのぞいていた。窪谷さんは悪魔とでも契約しているのではないかと本気で思う。

列車の遅れも無く、無事に窪谷さんと合流。黄峰城へ。




黄峰城


左:お堂の奥にある物置の横が登り口、右:南側の虎口の石垣



左:中央部の虎口付近の土塁、右:同左



左:東側の北隅の石垣、右:同左アップ



左:東側の北隅の石垣、右:東側の中央部の門?



左:東側の中央部付近の石垣、右:同左



左:西側の南隅の石垣、右:同左を下側から



左:南麓から、右:勝賀城から見た黄峰城




高松坂出道路の料金所の北東側から北西に下りると池のほとりに社が建っており、その西側にある小さな物置の奥に登り口がある。無理やり付けられた直登道できつかったものの、山頂まで赤テープがあるので気をつけて登れば迷うことは無い…かもしれない。
山頂平坦部の殆どは雑木に覆われている。平坦部の周辺には50cmから1m程の高さの石垣がほぼ一周している。
香西氏の城。詳細不明





勝賀城


左:本丸平坦部を南側から、右:同左を東側から



左:本丸の北西側の土塁、右:本丸北東部の虎口



左:本丸北東隅の井戸?、右:本丸東側の門付近



左:本丸の東下側、右:同左、南側



左:本丸東側の門付近を東下の郭の北側から、右:本丸東下の郭の北側付近



左:本丸の北東側のくるわの石垣、右:同左の北東下にある竪堀



左:本丸の北側の郭、藪、右:本丸の南側の郭の土塁



左:高松市を望む、右:麓の佐料城から見た勝賀城





佐料城の南側の道をそのまま西へ登ってゆくと、標高150m付近に登山口と車が2台くらい止められる場所がある。ここから残り比高200mは歩いて登る。道は一見良さそうだが、前日まで雨が降っていた為か湿っていて滑りやすい。
本丸とその周辺は手が入っていて見やすくなっていたが、半分以上の敷地は藪に埋もれている。しかし見える範囲では土塁の凹凸を十分に楽しめる。頑張って敷地全体を芝生で蔽って欲しいものである。また勝賀山は遊歩道のど真ん中であり、他にも幾つかの登山道がある。

讃岐藤家六十三家の棟梁、香西氏の城。佐料城の詰の城として築かれる。承久の乱以降、香西氏は讃岐中央部と備讃間の海域を制していたが、元亀2年の備前児島合戦で敗れて以降守勢に立たされる。天正2年には三好氏に、天正7年には同族の羽床氏に、また天正10年には長宗我部氏に攻められるものの何とか持ちこたえたが、天正13年の秀吉による四国征伐で香西佳清が野に下り、香西氏は滅亡する。

降りる頃に少し雪が降る。





佐料城


左:公民館、右:奥津神社



左:堀…というかドブ、右:新たに開発されつつある



勝賀城の屋敷跡。公民館の裏手の辺りに堀だけが辛うじて残っている。開発が進んでいるようで、いずれ埋め立てられてしまうかもしれない。




近くのうどん屋で昼食。チェーン店だが時間が無いので仕方ない。




羽床城


左:本丸を南から、右:本丸西側の貯水槽



左:本丸東側の土塁、右:本丸北側の土塁



左:本丸の北側の郭から本丸、右:本丸の北側の郭の社



左:北下の郭、墓地、右:同左の南西側、社のある郭との段差はかなりある



左:本丸東下の郭、右:南東側からの登り口




国道32号線と国道377号線の交差点を南東へ、国道377号線から県道278号線の分岐を南へ、本法寺の北西側の山の上に羽床城がある。南東側と北東側に登り口があるが、比較的楽に登れるのは南東側である。ただここは民家の敷地内にあるので、家の方に声を掛けて登るのが良いだろう。
本丸とその北の郭、そして墓のある郭辺りは比較的良く開けているが、その他は竹藪になっている。土塁は大分低くなってしまっているが、本丸とその北の郭との境目の辺りはメリハリがあってよい。

羽床氏は元々讃岐藤家六十三家の嫡流だったが、承久の乱で上皇方に着いたために棟梁の座を香西氏に奪われてしまい、以後は香西氏の陣代として活躍する。天正7年に長宗我部氏に攻められた際には抵抗の後、将兵と領民の保護を条件に開城している。





羽床上城


左:八坂神社の境内、右:同左



左:神社の西下の平坦地、右:同左を南側に



左:東南側の平坦地、北側と西側に多少の土塁が残る、右:西側の土塁



今滝の南側、八坂神社の境内付近が羽床上城である。幾つかの平坦地と土塁らしきものが幾つかあるだけで、ハッキリとした遺構は余り残っていない。

羽床氏の家臣、今滝氏の居城。





櫛梨山城


左:南西下の郭、右:同左付近のタコ壷跡?



左:南西下の堀切、右:同左



左:山頂の平坦面、西側から、右:同左東側から



左:一つ下の平坦部、右:山頂平坦部の北東隅付近、藪になっている



左:琴平付近を望む、右:櫛梨神社、遊歩道は写真の左奥から出ている






善通寺市の南東、如意山の南西の峰に櫛梨山城がある。南麓の櫛梨神社わきから遊歩道があり、山頂まで10分ほどである。平坦部は草が刈られているものの、周囲は藪なので周辺部の郭が見れない状態になっている。特に如意山への尾根筋の道が藪に埋もれているのは何とかして欲しい。
また南西下の郭の付近には、戦時中のものと思われるタコ壷の跡がある。筆の山でも同じようなものが残っており、近くの善通寺師団の演習でつくられたものかもしれない。

元々は奈良備前守元吉の出城だったが、文明9年に落城。その後は三好氏や長宗我部氏の陣城として利用された。





垂水城


左:浄楽寺、右:境内の土塁跡??



左:鐘楼、隅櫓があったらしい、右:北東隅辺りから寺を望む






丸亀市立垂水小学校の東にある、浄楽寺の辺りが垂水城である。ハッキリとした遺構は殆ど何も残っていない。
藤田氏の居城といわれているが詳細不明。16世紀初頭にはすでに寺になっていたらしい。





仲村城


左:南東側から、右:西側から



左:景政神社、神社の東と北に土塁、右:同左の上



左:南東側の土塁、右:同左西側



左:西側の推定堀、右:東側の推定堀






甲山寺の北東、県道212号線の少し奥にある景政神社の付近が仲村城である。神社の周りと、その南側に土塁の一部が残っている。
行路氏の居城といわれているが詳細不明。





高速代をケチるために大野原まで移動してから高速道路に入る。途中雪が酷くなるが積もらず。



午後7時半頃にホテル到着。近所で美味しいものを食べようと考えていたものの、繁華街でしかも到着が遅かった為にどこも一杯だったが、どうにか炉辺焼きの店に入って飲む。海鮮料理を色々と頼んで2人で8500円くらい。サツマイモのテンプラ、きびなごのテンプラ辺りが美味しかった。


疲労もあって、早々に就寝。





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