The Thin Rain Line 〜 安芸石見因幡遠征 

平成23年9月17日〜19日



森近土居 状況:雨




去年の秋は猛暑に見舞われたが、今年は大雨だった。

鈍足だった台風12号は記録的な大雨とそれによる被害をもたらし、それから2週間もしない内に台風15号が、自転車なみの速度で沖縄の東海上に輪を描いていた。
遠征直前の金曜日には台風による雲が西日本を覆い始め、週間天気予報によると三連休はいずれも雨となっていた。そして広島も夜に入ると雨が降り始めた。


これまで幾度と無く奇跡を見せていた晴れ男の窪谷さんだが、さすがに今回はその神通力も通用しなかったかと、前夜になって急遽雨天用の居館や陣屋の候補を追加しておいた。それでも足りなければ、温泉にでも浸かり美味しいものでも食べればいいじゃないかと、偶にはそんな遠征もあっていいではないかと諦めていた。雨具だけではなく代えの靴下やズボンもしっかりと準備しておいた。

しかし二泊三日の遠征を終えてみると、結果的に雨の境界線を巧みにかわしたことで、居館系が多いとは言え七尾城、山吹城、楪城の大物を含む計27城を落としていたのである。 矢張りあの人には何かが取憑いているという事を知らしめた、そんな遠征であった。



○9月17日



0645 曇り時々晴れ
車に乗り込むべく駐車場に出てみると、降り続いていた雨は止み、厚い雲の合間には青空すら見え隠れしていた。



・東広島駅
0745 曇りのち雨
窪谷さんと合流。サンライズ瀬戸は大雨の影響で多少遅れたものの、乗り継ぎには間に合ったとのこと。
しかし車に乗った頃から急にスコールが降り始め、15分程待機。
多少雨脚が弱まった為、駅から近い居館へと移動する。




森近土居屋敷


左:屋敷の南東面、右:北東面


左:土塁の北隅、右:北西面



0820 小雨
山陽新幹線東広島駅の南西約2.5km、国道375線の板城小学校の脇から南東の台地上へと登ると、森近公会堂の南に森近土居屋敷がある。一辺約40mの正方形で南東面は削られているが、他の三面は比較的しっかりと残っている。

詳細不明。





荒谷土居屋敷


左:南から、右:南西から


左:土塁の西面、右:東面


左:南東から、右:南正面



0845 曇り時々雨
東広島呉自動車道と国道2号線バイパスの交差点の東約200mに荒谷土居屋敷がある。東西南北の土塁が綺麗に残っている。現在も人が住んでいるが、整備の具合や門の造りから土居屋敷の何たるかをわきまえている事が判る。こんな場所に住めるなんて羨ましいとしか言いようが無い。

詳細不明。





三ツ城


左:古墳の北東側、右:南西側


左:古墳北東端から東を、右:同左から南西、古墳後円部を


左:後円部から南西方向を、奥が八幡山城、右:南西から



0915 曇り時々雨
山陽本線西条駅の南南西約2km、東広島市立図書館の西隣に三ツ城古墳公園があるが、この古墳が三ツ城だった…らしい。国道2号線バイパスを挟んで南西にある八幡山城から北東に伸びる尾根を利用して古墳は造られており、それをそのまま利用したものと思われる。復元された古墳そのものから案内板に至るまで城郭に関する匂いは何も残っていないが、城郭として利用されていたとしても不思議は無いようなメリハリの利いた地形をしている。

詳細不明





鏡山城



0945 雨
豪雨。鏡山公園の駐車場でしばらく待機するが止みそうにも無いため、東広島での攻略を諦めて北広島町千代田へと移動を開始する。
しかし高速道路に入った辺りで雨が止み、晴れ間すら覗く。多少悔やむが仕方なし。






今田氏居館


左:居館の西正面、右:居館と詰城


左:居館部を北から、右:居館の石垣、その辺の田んぼの物と違い、石が大きい



1120 曇り時々雨
中国自動車道千代田ICの南西西約2.5kmの奥今田集落の西奥に居館跡と詰城とがある。居館跡は西面の石垣しか残っていない。詰城へは民家と石垣の間から道が出ているようだが、夏&雨で足場が悪そうなので諦める。

詳細不明





今田氏土居館


左:西面の土塁と堀跡、右:南面の堀跡


左:南から全景、右:北面、手前の田んぼは堀跡?



1140 曇り
千代田高校の北約500mに今田氏土居館がある。明確な遺構は西面の土塁と堀跡だが、周りの田んぼから一段高くなっており、辛うじて館があった事が判る。

詳細は不明




昼飯の時間になったので、今田氏土居館から程近い国道261号線沿いのファンキートーキーという変な名前のレストランへ。名前と違って普通の、そしてこの付近では比較的オシャレなレストランで、ハンバーグランチをいただく。




吉川元春館


左:館の北面、右:東面の一段下


左:東面の南側、右:東面の門跡


左:東面の北側、右:南面の堀


左:北側の土塁、右:北東隅の石垣


左:館の北西部、右:北東部



1230 曇り時々雨
火野山城の南西約3km、国道433号線の脇に吉川元春館がある。土塁や堀が復元され、資料館に土産物屋、食堂まで作られている。見た目が楽しい場所だが西面と南面の防御が弱く、城としての能力は求められていなかったことがわかる。

天正10年(1982年)に吉川元春が隠居所として造ったものである。





松本氏館


左:西面、右:南面


左:南面の中央にある門跡?、右:南面



1320 曇り
吉川元春館の北西約200mに松本氏館がある。今残るのは石垣のみであるが、南面の中央部には門跡らしき窪みがある。

吉川広家の妻の屋敷跡といわれている。





土居ヶ原土居屋敷


左:西面の土塁跡?、右:敷地?


左:敷地?、右:南面の石垣?石の大きさが小さすぎる



1330 曇り時々晴れ
吉川元春館の南東約1km、下石集落の北西端に土居ヶ原土居がある。大体の場所には行ったのだが、私有地であったこともあり明確な遺構を確認できなかった。写真の奥にある空家付近が本当の土居跡のようである。

詳細不明。





火野山地土居


左:下段から上段の南東面を、右:同左の北東側


左:南東面の下の石垣南西側、右:石垣北東側



1350 曇り時々晴れ
吉川元春館の東約3km、舞綱集落の中に火野山土居がある。殆ど田畑になってしまい、更に土留めとしてコンクリートで表面が覆われてしまっているが、基礎部の石垣が辛うじて残っている。

詳細は不明。





駿河丸城


左:入り口、右:草むら



1415 曇り時々晴れ
大朝町役場の北西約1kmに駿河丸城がある。一応看板はあったものの、草が深く濡れていたために進入は断念。また駐車スペースも無く看板脇に車を停めたが、20匹以上の蚊の群れに襲われてえらいことになる。とても国指定遺跡とは思えない。

正和2年(1313年)に吉川経高が大朝本荘の地頭職として下向した際に築城したとされている。その後、小倉山城に本拠を移すまで安芸吉川氏の本城であった。





平家ヶ丸城


左:神社の南側、右:神社の東側


左:神社の北側の藪、堀切は確認できず、右:神社の北東下の平坦地



1440 曇り時々晴れ
大朝ICの東約500mに平家ヶ丸城がある。現在は宮庄八幡宮が建っており、明確な遺構は神社の北下の堀切と2ヵ所の郭だけらしいが、恐らく神社の敷地も城域だったと思われる。藪が酷く、また地面が濡れていたので藪に入れず、堀切から先は確認できなかった。

吉川氏一族の宮庄氏の居城といわれている。




天気は回復するもこれまでの雨で足場は悪くなっていることから有田と壬生は諦め、本来は翌朝の予定だった益田市の3城を先に落とす事にする。


ところが浜田市に入った辺りでまた豪雨。これは無理かと諦めていたのだが、益田市に入ると雨は上がり、また地面もそれほど濡れていなかった。





七尾城


左:住吉神社への参道から麓の水堀を、右:住吉神社


左:太鼓の段の西斜面の縦堀、右:斜面、右奥が神社


左:厩の段から太鼓の段を、右:厩の段


左:二の段から西に伸びる郭、右:二の段から厩の段と井戸を見下ろす


左:二の段、右:本丸


左:本丸の南下、右:本丸から益田市街を望む


左:二の段の北側、右:二の段の北下の堀切


左:千畳敷、右:麓の看板にあった縄張図



1620 曇り
山陰本線益田駅の東約3kmに七尾城がある。西斜面に建つ住吉神社から遊歩道が出来ており、本丸、二の段、厩の段は楽に登る事が出来る。しかしそこから先は道が無いか、もしくは道が草に埋もれてしまい藪漕ぎが必要である。メリハリの利いた良い山城であり、もう少し金をかけて本来の大手筋(2本の尾根の間の谷)から登れるようになると、全ての郭を回りやすくなるのではないかと思う。

石見西部に勢力を持っていた益田氏の居城であり、13世紀中頃に築城されたといわれている。弘治2年(1556年)に吉川元春に攻められ開城するが、益田氏は毛利家に下り、関ヶ原の戦いまで代々益田氏の居城であり続けた。





三宅土居


左:西面の土塁の東側、右:東を望む、寺の跡


左:西面の土塁の西側、右:西面の土塁の南隅


左:東面の土塁の西側、右:東面の土塁の北隅


左:北面のライン、右:南面のライン

1710 曇り
七尾城の北西約700mに三宅土居がある。東西2面の土塁しか残っていないが、墓所であった為かほぼそのまま残っている。また北面と南面も辛うじて段差が残っている。
現在、整備が進んでおり、内部にあった寺が移転していた。もう数年すれば屋敷全体が綺麗に整備されるものと思われる。

大谷土居屋敷が応安元年(1368年)に火事で焼けてしまったため、七尾城に近い三宅に新しく居館を造った。それから益田氏が石見を去る1600年まで代々益田氏の居館であった。





大谷土居


左:西下から、右:屋敷の石垣


左:西へと伸びる土塁、道路によってその先が削られている、右:屋敷の平坦地を南上から



1740 曇り
七尾城の東約1km、豊川小学校の南の台地上に大谷土居がある。屋敷の北面に石垣があり、また西に土塁が伸びているだけである。この土塁は1974年の航空写真ではまだ先まで延びていることから、後年の道路工事で削られてしまったようである。

応安元年(1368年)に火事で焼けてしまうまで、益田氏の居館であった。立地から七尾城の居館というのは難しいように思えるが、七尾城ができるまでは館の南に伸びる尾根上に詰の城があったのかもしれない。




日が暮れて光量も足らなくなってきたため、これにて本日の作戦は終了とし、宿へ移動する。

居酒屋も併設した民宿で料理や酒が美味しく、また建物が新しかった為に快適であった。更に客が多かったにもかかわらず部屋を別にしてもらえたため、お互いにいびきに煩わされることも無く就寝することができた。



夜、雨。






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