元宇品
2006.3.7 探索
2006.10.15 再訪
2011.9.24 再訪
2020.11.15 再訪
2021.8.15 全面リニューアル
2021.11.23 再訪
2022.1.5 大隊本部と高射砲陣地の記事更新
2022.3.6 元宇品小学校校舎について追記
 元宇品に高射砲陣地が造られたのがいつなのかは
不明であるが、元々砲座が4基編成だった名残がある
こと、機銃陣地が併設されていることから、二葉山
や向洋と同じ、比較的早い時期(昭和17年〜18年頃)
ではないかと思われる。
 大隊本部については、[29]によれば、昭和20年頃
になってから、この場所に移設されたようである。

 宇品島には無数の軍事施設跡が残っているが、
高射砲部隊関連のものは北部の大隊本部、中部の
高射砲陣地、南部の機銃陣地の3か所である。
 戦後、公園化等により破壊された部分が多いが、
それでも比較的良く残っている方である。



 2011年秋に元宇品を訪れて以来10年近く、このHPもほったらかしであったが、元宇品で自然観察ガイドをされているHさんから高射砲陣地についての問い合わせがあり、その過程で様々な新情報をいただいたことが切っ掛けで、私自身も再度現地を訪れ、大幅に書き直すことになった。Hさんと、その同僚で元宇品在住のSさんに、心より感謝を申し上げます。





大隊本部
高射砲陣地
機銃陣地

大隊本部




右上:終戦直前の航空写真(国土地理院:5M220-108E, 5M220-1081)
右下:昭和40年頃の航空写真(元宇品小学校の空撮写真より)

 終戦直前の航空写真を見ると、現在の浄水施設の周囲に4棟の建物と、最北端に良くわからないものが写っている(黄色矢印)。恐らく、ここに独立高射砲第22大隊の大隊本部があったのではないかと思われる。

 またHさんによると、戦後に元宇品小学校が出来た際、浄水施設(A)の南東下(C)に北校舎があったそうである。終戦直前の航空写真に同じ場所で同じような建物が写っていること、また昭和22年夏頃の航空写真でも建物が残っていることから、大隊本部の兵舎をそのまま転用したのではないかと思われる。その一方で浄水施設(A)の北(B)にある建物は、終戦直前の航空写真の建物とは大きさも形も異なっており、終戦後に改築されたか、もしくは建て直されたものだと思われる。

 現在は上水施設(元宇品調整場)と宇品善徳寺の宿坊(樹心庵)になっている。2006年に探索した際には気が付かなかったが、色々と遺構が残っている。


左:平坦地A、右:Aの北側にある上水施設


左:平坦地AとBとの間の段差、右:平坦地Bを北から

 大隊本部の指揮所があったと思われる最高所の平坦地Aは、昭和23年に水道の元宇品調整場が建設され、何も残っていないどころか元の地形の面影も何も無い。平坦地Aの周囲にコンクリートの縁があるが、上水施設関連の物と思われる。

 高射砲・照空部隊(大隊、中隊、小隊)等の本部施設は見晴らしの良い場所に置かれ、右下の図のように、半地下式の指揮所と対空見張所で構成されていたようである(北九州地域の荒田、元倉、西、尺岳、鷲峯山で確認)。航空写真を見ると、指揮所と思われる建物は半地下式にはなっていないものの、東側の一段低い場所に建っているように見える。その西の最高所に対空見張所があったと思われるが、航空写真からは判別できない。




左:平坦地Bの北東縁の瓦礫等、右:同左の建物の基礎?


左:排水の土管と目皿、右:平坦地Bの東下斜面の金隠しと瓦


 平坦地Aの北にある平坦地Bには、航空写真を見ると
建物があったようで、良く探すと北東側に建物の基礎や
壁の破片のようなものが転がっている。Hさんから
教えてもらった目皿も見つけられた。他に東下斜面に
大便器の金隠しの部分や瓦、一升瓶などが転がっている。
 しかし、前述の昭和40年頃の航空写真から、ここには
戦後に別の建物が建っていたことがわかっており、
それが戦中の建物を改築したものでなく、戦後新たに
建て直したものであれば、これらの瓦礫は戦後の物に
なると思われる。


左:平坦地Cにある寺の宿坊(樹心庵)、右:切岸と宿坊の隙間から北東側を望む


左:平坦地D、右:同左西にある石垣


 平坦地Aの南東下には平坦地CとDがある。平坦地C
の南半分には宿坊(樹心庵)が建っているが、
2021年11月時点では使われておらず、北半分の庭も
荒れている。終戦直前の航空写真を見ると、
平坦地Cには長細い兵舎が写っている。
 戦後、元宇品小学校が出来た際には、ここに
北校舎があった。兵舎をそのまま利用した
のかもしれない。

 平坦地Cの北東には平坦地Dがある。崩れ落ちた土砂等で明確な平坦地にはなっていない。西面には石垣がある。

 それから写真を撮り忘れてしまったのだが、平坦地Cの南西下には平坦地Gがある。現在は電波施設が建っているが、終戦直前の航空写真を見ると建物が写っている。


左:Bの北端からEを見下ろす、右:遺構群Fの西端にある平坦地


左:Fの北斜面にある3か所の窪地、右:崩落した地下壕入り口?


 平坦地Bの北下には、平坦地と呼ぶには微妙なEが
ある。東斜面には崩落した地下壕らしいものがある。

 Eから尾根を西に少し下ると、遺構群Fがある。
西端には南北に長い平坦地があり、その北隣に
3つの連続した窪地がある。またその東隣には
崩落した地下壕入り口らしきものももある。
遺構群Fからは、土管や煉瓦、コンクリートと
いった物は見当たらず、大隊本部の施設ではない
可能性もある。

高射砲陣地

終戦直前の航空写真(国土地理院:5M220-108E, 5M220-1081)
高射砲陣地 中央平坦地(砲座)

赤矢印が6基の砲座(国土地理院:5M220-108E, 5M220-1081)
赤丸が砲座のあった推定位置

 赤とんぼ広場には高射砲陣地があった。陣地西側の兵舎群や砲座の一部は道路建設によって削られてしまったものの、幾つかの遺構が残っている。




左:中央平坦地(赤とんぼ広場)を西から、右:同左を東から、手前は砲座Aの砲床














88式7p野戦高射砲の砲座のコンクリート部分(左、右上:薄赤部分)[1]と立体図




左:砲座Aの砲床、右:砲座Bの胸墻土留壁を上から


左:砲座Bの胸墻土留壁を南下(道路)から、右:砲座Bの砲側弾薬置場


左:砲座Cの砲床を側面から、右:砲座Cの東側の胸墻土留壁


左:砲座Cの砲床、右:同左中央部


左:砲座Cの西側の胸墻土留壁、右:砲座Dの砲側弾薬置場(東西)



左:砲座Dの砲側弾薬置場(西側)、右:同左近くのコンクリート破片


左:砲座Dの砲側弾薬置場(東側)、右:同左を上から

 砲座は航空写真からは6基分確認できるが、赤とんぼ広場の中央から少し東にもう1基分の砲座Aの砲床が残っている。恐らくは元々1個高射砲中隊が4門編成だった時代の名残で、6門編成に強化された際に砲座Aが廃止され、代わりに砲座C、D、Eが追加されたのではないかと思われる。

 砲座B、C、Dは道路工事で削られたことで、胸墻土留壁や砲側弾薬置場、砲床が露頭している。また砲座Eは土砂崩落等により、胸墻土留壁と砲側弾薬置場が露頭している。

 砲座Cの砲床は3分の1が削られているが、断面から砲床の構造を見ることが出来て面白い。広場の表土を削れば、6+1基の砲座が出てくると思われる。


左:砲座Eの北側の砲側弾薬置場、右:砲座Eの胸墻土留壁、排水管が残っている


左:砲座Eの胸墻土留壁、右:砲座Eの南側の砲側弾薬置場


左:兵舎平坦地F、右:同左東隅のコンクリート製の水槽


 赤とんぼ広場の北西下に兵舎平坦地Fがある。道路工事で半分以上削られているが、広場側の切岸や、東隅にあるコンクリート製(煉瓦+モルタル?)水槽が残っている。
高射砲陣地 北東下兵舎跡



左:終戦直前の航空写真(国土地理院:5M220-108E, 5M220-1081)



左:Gのある北東下斜面、右:窪地G


左:兵舎平坦地Hへの道、右:平坦地H



左:平坦地Hの北東縁、右:南の切岸


左:南斜面にある地下壕跡、右:南斜面にある石垣

 元宇品の自然観察ガイドの1人で元宇品在住のSさんの聞き取り調査によると:
「(高射砲陣地のあった広場の)桜の木の辺りに四畳半くらいの大きな防空壕の入り口があり、それが山の北西麓にあるマンションのベイサイドパレスの裏手にまで通じていた。内部は大きな通路で空のドラム缶が幾つも捨てられていた。コンクリートや木材で補強はされていなかった。中でカーバイトの缶を拾った。」とのこと。
 この防空壕の入り口跡があった北東下の斜面を探してみたものの、分からなかった。コンクリート製の崩落防止壁にようなものがあるが、これがもしかすると地下壕入り口を塞いだものかもしれない。その斜面の上には機銃座のような窪地Gがある。用途は不明である。またその並びにも窪地や地下壕跡が幾つかあるが、いずれも小さい。


 高射砲陣地の北下には、兵舎平坦地Hがある。陣地からの道が一応残っている。平坦地Hの東西にそれぞれ下に降りる道があるが、途中で藪に埋もれている。平坦地Hに南は切岸になっており、崩落した地下壕入り口と、石垣がある。
高射砲陣地 東兵舎跡



左:終戦直前の航空写真(国土地理院:5M220-108E, 5M220-1081)



左:兵舎平坦地Iへの通路、右:平坦地I


左:平坦地Jにあるコンクリートと煉瓦、土管、右:東下へと下る道

 高射砲陣地の東に、最も長い兵舎のあった平坦地Iがある。その北東端には一段下がって平坦地Jがあり、コンクリートと煉瓦、土管で出来た遺構がある(自然観光ガイドのSさんに指摘されるまで気づかなかった)。トイレ関連の水槽の残骸だろうか。またその南西には長細い窪地がある。またこの平坦地から東下へと降りる道がある。
高射砲陣地 南下兵舎跡



左:終戦直前の航空写真(国土地理院:5M220-108E, 5M220-1081)



左:兵舎平坦地Kを南から、右:同左の東側の切岸


左:平坦地Kを北上から、右:平坦地Kの南東隅


左:コンクリート製水槽L、右:同左


左:Lの東斜面にある崩落した地下壕、右:同左を北東上から

 高射砲陣地の南下にも比較的大きな兵舎平坦地Kがある。平坦地Kの南には、トイレ跡と思われるコンクリート製(レンガ積み?)水槽Lがある。便槽らしい窪みがあることにはあるのだが、写真だと何かよくわからないのでカットした。落ち葉等で埋もれてしまっているのかもしれない。水槽Lの東斜面には崩落した地下壕がある。


高射砲陣地 南下兵舎跡 その2



左:終戦直前の航空写真(国土地理院:5M220-108E, 5M220-1081)



左:Mの北上の平坦地、右:Mの南下の平坦地


左:平坦地N、右:同左

 南下斜面の西側に、3ヶ所の平坦地がある。Mは南北2段になっている。造作は荒く、航空写真を見ると建物のようなものが写っているが、建物の基礎のようなものは見つからなかった。平坦地Nは南西に下る山道の脇にあるが、こちらも造作は荒い。
 
高射砲陣地 西下施設跡


左:終戦直前の航空写真(国土地理院:5M220-108E, 5M220-1081)



左:平坦地Oを南から、右:同左東側の便槽跡?


左:便槽跡を北から、右:便槽跡の西側の建物基礎(赤線の間)


左:平坦地Oの北西端にある水槽、右:同左内部


左:細長い平坦地Pを北から、右:Pの南にあるコンクリート構造物


左:半円形窪地Qを東上から、右:同左内部


左:半円形窪地Rを南から、石垣になっている、右:同左内部


左:OとQの間に落ちていた食器、右:同左


 西下斜面にも施設跡が残っている。平坦地Oは、
航空写真を見ると建物が写っており、長細い窪地や
水槽などから、トイレ跡ではないかと思われる。
南北に連なる2ヶ所の長細い窪地(便槽)の上に便器
があり、平坦地Oの北西隅にある水槽で汲み取って
いたのではないかと思われるが、トイレの構造には
あまり詳しくないのでそれ以上は分からない。

 平坦地Oの南には、南北に細長い平坦地Pがある。
南の斜面側にコンクリート構造物があるが、何なのかはわからない。道路を建設した際に埋もれたのであれば、掘れば正体がわかるかもしれない。

 平坦地Oの西下斜面には、2ヶ所の半円形窪地QとRがある。いずれも用途は不明。Qは土塁だが、Rは石垣になっている。

 OとQの間に、磁器製食器の破片が2つ転がっていた。星マークは見当たらなかったが、形状等から軍隊用食器ではないかと思われる。

高射砲陣地 北西弾薬庫?跡



左:終戦直前の航空写真(国土地理院:5M220-108E, 5M220-1081)



左:平坦地Sを北から、右:平坦地Sを西から


左:平坦地Tを東から、右:平坦地T


左:当時の軍道を車道から、右:軍道

 高射砲陣地には弾薬庫が付きものだが、元宇品の高射砲陣地では弾薬庫の明確な遺構は残っていない。弾薬庫は爆発の被害を最小限に抑える目的から、周囲を土塁等で囲われた天井の無い場所に置かれていることが多い。

 航空写真を見ると、陣地の西の谷地Sと、北西の少し離れた場所Tに、特殊な建物が2棟写っている。
 Sは周囲に何も無く、高射砲陣地西脇にある兵舎と近いが、兵舎からは低い谷地にあることから、土塁に近い効果があったのでは…とも思ったが、さすがにこの地形では兵舎に爆風が吹き付けることになってもおかしくない。
 Tは現在でこそ道路わきの平坦地だが、当時の軍道が少し南で東へと折れており、軍道との間には土塁地形が存在していた。反対側は遮蔽物も無く開放されているが、その先には何もなく、その為に北面と西面に防御壁が無くとも問題はないと判断したとすれば、Tが弾薬庫であった可能性は多少ともなりあるように思える。


 色々と考えてみたものの、他に候補地も無いことから、陣地の北西にあるSとTを、弾薬庫と比定していおくことにする。航空写真に写っていないだけで、他に弾薬庫が存在したかもしれず、今後も継続的に調査してゆきたい。


高射砲陣地 北下施設跡



左:終戦直前の航空写真(国土地理院:5M220-108E, 5M220-1081)



左:平坦地aを南西から、右:平坦地aのレンガ積み水槽


左:平坦地a東端の壊されたレンガ積み水槽(右側)、右:斜面bにある2基の水槽

 中央平坦部の北下の谷に、施設跡らしい遺構が幾つか残っている。ただ、それが陸軍関連の物なのか、戦後の物なのかはわからない。
 東西に2ヶ所の広い平坦地aとbがある(どちらも現在は畑)。平坦地aには南の道脇に5基の水槽がある。その内2基はレンガ積みであり、陸軍施設の水槽だったのではないかと思われる。他3基は薄手のコンクリート製(もしくはレンガ積み+モルタル)である。また平坦地aのあちらこちらに、建物の基礎っぽいコンクリートや石積みが残っている。


左:斜面bの高い方の水槽?、右:同左内部、機械の基礎が据えられている


左:斜面bの低い方の水槽、右:崩落した地下壕入り口っぽいd


左:平坦地cの西隅にある構造物、右:同左、レンガ積み

 平坦地aの南側の斜面bには、2基の水槽がある。低い方の水槽は落ち葉等に埋もれて中が見えない。高い方の水槽は、縁にアンカーボルトがあり、屋根が付けられていた事が判る。内部の底にはポンプの基礎のようなものが据えられている。元々水槽だったものに後でポンプを据えたのか、それとも元からポンプ用に作られた外壁なのかはわからない。
 平坦地cの西隅には用途不明のレンガ積みの構造物がある。また平坦地cの南斜面には崩落した地下壕入り口らしいdがある。
機銃陣地



左:終戦直前の航空写真(国土地理院:5M220-108E, 5M220-1081)



左:銃座Aを南から、右:銃座Aを東上から


左:銃座Bを東から、右:銃座Bを南から


左:銃座Cを北西上から、右:銃座Cを北上から


左:銃座Cを東下から、右:指揮所Dの窪地

 宇品島南端の灯台の近くのピークに、機銃陣地跡がある。航空写真を見ると4基の銃座があるが、一番西の銃座は道路工事で消失し、また西から2番目の銃座Aも一部削られている。いずれの銃座も内径約5mと、機銃座としてはかなり大きいが、高射砲の砲座としては少し小さく、また指揮所が単純であることから高射砲陣地ではなく機銃陣地であると推測できる。ピーク部にある指揮所跡Dは地下部分があるような造りをしているが現在は埋まってしまっている。


参考文献・リンク

[1] 「高射砲陣地構築要領」 アジア歴史資料センター:A03032195600