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室蘭の歴史は坂の歴史でもあるのです・・・

■日本一の坂/nihonichi-no-saka旧室蘭駅前「室蘭釣具」左小路を上ったところ
 室蘭をちょっと知っている方ならご存知、知らない方なら「何で室蘭に日本一の坂が!!」といいたくなるような坂。それが日本一の坂です。別に日本一坂がきついとか、長いとかではなく名前の由来は、この辺りで「福井庵日本一」というそば屋が開店し、繁盛していたことから、名づいたといわれています。
 この福井庵日本一の主人は、小樽で殺人を犯し、室蘭に流れ明治36年、この辺りにそば屋を開店しました。ある日夫婦喧嘩がこじれ、妻が"人殺し"と口走ってしまいました。折りもおり、別の事件で刑事がこのそば屋を訪れるようになり、男はてっきり小樽の殺人がばれたと早合点、日夜苦悩のあげく、とうとうピストル自殺してしまいました。こういう物騒な話が残っていますが、今も旧室蘭駅前に通じる小路として市民に親しまれています。

■問屋の坂/tonya-no-saka海岸町「栗林商会」前の坂
 1892年(明治25年)輪西−岩見沢間に北海道炭坑鉄道株式会社の鉄道が敷かれると、室蘭は石炭積出港として大きく発展しました。北炭の石炭荷役を一手に引き受けたのが(ヤママルイチ)佐々木商店の佐々木一造氏。その繁栄ぶりは城壁にも似た石垣が物語っています。その石垣は1906年(明治39年)、有珠の石を運び、京都から石垣職人を連れてきて作らせたものです。今はありませんが、石垣の上の豪邸は、くぎを一本も使わない「宮作り」の平屋建てでした。やがて海産物卸問屋の室蘭産物会社が創業すると、その石垣のある坂は人であふれ、「問屋の坂」、あるいは「産物の坂」と呼ばれるようになりました。
 往年の石炭産業最盛期のころの港は、まだ明け暮れぬ星空の帳を破るように、石炭列車が夕張から到着し、入江埠頭に数百積の「セキ」印の貨車が止まっていました。その先には貯炭場の山と、うなるトランスポーターがあり、岸壁で荷場人夫がパイスケを肩に調子を取りながら歩み、坂を下って艀(はしけ)を往復していました。

■幕西坂/makunishizakaプリンスホテル駐車場横の坂
 その昔は名だたる遊郭街で、明治5年の札幌本道工事に従事した数千人の荒れくれ男が終始この場所に通い、殴り合いのけんかが絶えず、"人殺し坂"の異名をとるほどでした。幕西遊郭は明治25年(1893)北海道庁の告示により、老名牛(おいなうし:現在の追直)に移転することになったのですが、老名牛住民が「昆布の干し場がなくなるし、風紀上好ましくない。」と猛反対して、幕西遊郭は結局第二次世界大戦後の公唱制度廃止まで続きました。
 現在の幕西坂は、すっかり落ち着いた住宅街として生まれ変わり、往時の風情は、わずかに残る料亭に名をとどめる程度です。

■仏坂/hotokezaka室蘭警察署からNHK室蘭放送局にかけての崖上。
 明治5年(1872)、室蘭の夜明けを告げる室蘭と札幌間の札幌本道開削工事が槌音高らかに始まりました。しかし、岩盤質の山を崩して道を切り開く工事は難行を極め、多くの人夫が犠牲になり、この工事現場付近に一時埋葬されました。このため誰言うとなく名づけられたのが「仏坂」でした。昭和7年「市役所通り」と改めましたが、いまなお「仏坂」の名で呼ばれています。
 「いこか幕西、帰えろか母恋、ここが思案の仏坂」という歌がありましたが、これは母恋に社宅のあった日鋼社員が、自宅に帰ろうか遊郭街のあった幕西にいこうかと、鬼気も迫る仏坂の手前で迷う姿を冷やかしたものです。

■牛太郎坂/gyutarozaka中島本町、日新小学校裏手の坂。
 日新小学校の裏手にある牛太郎坂の由来は面白いです。本名を川村丑太郎といい、登別で宿屋を営みながら、多くの馬を飼っていました。明治10年7月2日、用事で崎守町に出かけた帰り道、夜道の悪路に足を取られ、知利別川の下流で水死。そして、この坂道で検視を受けました。
 かって丑太郎は、熊と死闘を演じた際、片目をむしりとられながらも、九死に一生を得た剛のものでした。熊を相手に戦った当時の英雄の、あっけない死を聞いた住民は、その変死に驚きとショックを受け、その名をとってこの地を牛太郎坂と名づけました。

■室蘭発祥の坂/崎守町仙海寺前の坂 
 室蘭という名前はアイヌ語の「モ・ルエラニ」から転化したもので、"小さな坂道を下りたところ"という意味です。室蘭という名前そのものが坂と深い関係にあったんですね。崎守町の仙海寺前の坂が縁の地とされています。

■東小路の坂/丸井の坂拓銀室蘭支店横の一方通行の坂
 東小路なんて地名あったかな??と思う方、それもそのはず、東小路というのは今の西小路町の対になってあった町で明治14年まであった古い地名です。室蘭プリンスホテルの前、老舗の東陽件の横から、室蘭出身の芥川賞作家「三浦清宏」の生家があった東陽カメラハウス横、十時堂時計店まで続く一方通行の坂を東小路の坂、あるいはプリンスホテルの前に建っていた丸井今井室蘭支店があったことから「丸井の坂」とも呼ばれていました。

■御前水中学校下の坂御前水町B-ingから御前水中学校にかけての坂」
 母恋方向からくるとラッパ森を過ぎて坂を下ったところの信号からまっすぐ山に延び、御前水中学校まで伸びている坂です。中学校3年間毎日この坂を登りましたが、遅刻しそうなときはなぜこんな急な坂のてっぺんに学校を作ったんだと思っていましたが、今でもそう思います。以前は日鋼の社宅が母恋富士の山裾に沿って建っていましたが、今はその光景も昔のものとなり、新しい住宅地が生まれています。この坂の特徴は、あきらかに地球岬へ行くと思われる観光客が間違ってこの坂を上ってきてしまうところにあります。実際は、坂の途中で左折し住宅街の中を通らないと観光道路へは行けません。そういえば坂の途中に昔の丸い形をした郵便ポストがありましたが今もあるのでしょうか。部活で学校から坂の下まで往復して走ったなんていうことも今となってはいい思い出です。

■西小路坂西小路町「旧札幌通りから測量山へと続く坂」
 八木義徳の文学ファンなら一度は訪れてみたい坂。それが西小路の坂です。小説「海開け」の舞台のなったこの坂は、八木先生の幼少の頃過ごした街であるからです。港の方から測量山へと続く2本の坂のうちの1本で、とても坂がきついのが印象的です。室蘭にはその地形上無数の坂がありますが、この西小路の坂の勾配は室蘭の中でもかなりきつい部類にはいるのではないでしょうか。車で上るのも少しスリルが伴うそんな坂です。ただ坂のてっぺんまで登ってみることのできる室蘭港の風景は、ほかの場所からよりもきれいに見えるのは気のせいでしょうか。

■港北−八丁平間の坂港北町5丁目から八丁平の自動車学校へと続く坂
 室蘭は地形上、山というか小高い丘を境界として街が形成されていますが、この坂はその山側の八丁平とふもとの港北町を結ぶ重要な坂です。この坂は昭和53年から14年という長い歳月をかけて平成3年の11月1日に完成した坂です。中島港北大通りの一角を担うこの坂は途中急なカーブが2つありますが、坂の勾配を緩くするため道は旧道よりも大きく迂回しており、車が走行しやすいものになっています。地域的な路線のせいか、走る車も少なく、歩道にはジョギングや散歩をしている人をよく見かけます。夜、この坂を港北町に向けて下ると白鳥大橋のライトアップと眼下に港北町の街明かりが見えて、とてもきれいです。


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このページは室蘭市の許可を得て「ふるさと室蘭ガイドブック」の文章を引用している箇所を含んでいます。