| 室蘭の歴史(暫定版) |
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はじめに室蘭の歴史を本州の人たちに話すとき、北海道は本州に比べ、歴史が非常に浅いということを念頭におくことが大切です。蝦夷と呼ばれた北海道は、長い間アイヌの人たちの土地で、室蘭に和人が住み着いたのは、今からおよそ390年程前の慶長年間(1596〜1614)にアイヌの人たちとの商取り引きのために「絵鞆場所」が設けられてからです。そのころ、本州では豊臣秀吉が病没し、政権は徳川家康に移った時代でした。しかし、その開拓が遅れた分だけ、雄大な自然が破壊されず残っていて、木州から来る観光客にとって、それが何ものにも代えられない魅力になっています。私たちは、それを大いに誇りにし、自慢できるのです。とりわけ、私たちの住む室蘭市は、絵柄半島という天然の地の利を得て、工場群や住宅地と背中合わせに豊かな自然が広がるすばらしい地形になっており、地球岬をはじめトッカリショ、マスイチ、鳴り砂のイタンキ浜など、他に例のないすばらしい景勝地などがあり、これらを知れば知るほど、ふるさと室蘭の良さが分かってくるはずです。 |
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北海道に人類が現れたのは、おそらく数万年前といわれていますが、室蘭地方に先住民が住み始めるのは、その生活跡から、約7〜6千年前ころとみられ、縄文時代・早期の梁川式土器、苫別式土器が絵鞆遺跡から出土しています。この絵鞆遺跡を含め、市内では、北海道教育委員会が32カ所の包蔵地を確認していますが、そのほとんどが宅地化などにより自然消滅しております。 ★輪西遺跡から出土の土偶(国の重要文化財) 大正初期に、縄文時代晩期(約3〜2千年前)の土偶が、輪西村日本製鋼所構内の貝塚から、ほとんど完全な形で出土し、現在、東京国立博物館(上野公園内)に重要文化財として収蔵されています。 ★原始人の復顔 今から、約2千年ほど前の原始人(続縄文時代人)の頭骨が、昭和38年に、絵鞆遺跡から発掘され、昭和55年に法医学的方法で復顔され、現在、民俗資料館に展示されています。こうした精巧な復顔は、これまであまり例のない貴重なものです。 |
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松前藩が絵鞆場所を開いたのは、今からおよそ390年前の慶長年間(1596〜1614)といわれていますが、はっきりした年代は分かっていません。エンルム(絵鞆岬)の丘の上に、和人とアイヌの人たちが、商取り引きをする運上屋が建てられ、和人はアイヌの人たちが必要とする米・煙草(たばこ)・酒・塩・衣類などを贈り、その返礼として海産物(ニシン・サケ・コンブなど)・クマ・シカの毛皮などを受け取っていました。(当時は米1俵とサケ100尾の交換が相場といわれています)最初のころは、取り引きも正常に行われていましたが、後には目に余る不正取り引きやアイヌの人たちからの搾取が横行するようになりました。この絵鞆運上屋は、後に場所が幕府直轄となり、モロラン(今の崎守町)に移されるまで、約200年間も続き、絵鞆場所は蝦夷地の上陸地点として交通の要路となり、弁財船の出入りも盛んでした。 ★場所制度 豊臣時代になって、蝦夷地(北海道)支配は松前藩にまかされました。松前藩は、広大未明の蝦夷地を数十場所に分割して、アイヌの人たちと交易をするため、主だった家臣に知行地(支配地)として分け与えました。場所は、おおよそアイヌの人たちの共同漁猟場の範囲を基に定めており、室蘭地方は総称して「室蘭場所」と呼はれた。 |
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外国船が日本近海に姿を見せはじりたのは、ローソクの原料となる鯨の捕獲や金や銀の探検のためでした。特にコロンブスのアメリカ大陸発見(1492)以来、東洋を訪れる船も多くなり、マルコ・ポー口の「東方見聞録」の中に「日本という大きな島は、黄金が無尽蔵なまでに、埋蔵されている」、書かれたため、外国船が次第にその数を増しました。“黄金の島ジパング"に夢を広げ、太平洋に残り少なくなった植民地と交易航路を求めて、寛政8年(1796)ウィリアム・ロバート・ブロートン船長が率いるイギリスの探検船プロビデンス号(パーク型帆船)が松前藩頷下の絵鞆に来航しました。このとき、デンマーク生まれの水兵ハンス・オルソンが、作業中の事故で死亡、その遺体を大黒島に葬ったことから、この島をオルソン島と名付けました。フロビデンス号は、その後宮古沖で沈没しましたが、スクーナー型帆船のプロビテンス号として翌年(1797)も来航して、アイヌの人たちとも交流し、港内の測量を行いました。ブロートン船長は、故国に帰ってからその著書「北太平洋探検の航海」て、北海道に「エンデルモ(エトモ)・ハーバー」という天然の良港ありと、室蘭港の良さを広めるとともに、有珠山や駒ケ岳などの火山群を見て、この湾を「ボルケイノ・ベイ」(噴火湾)と名付け、世界に紹介しました。 |
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寛政11年(1799)幕府は、松首藩に北辺の警備能力がないことと、場所請負人が搾取、不正、私利私欲をむさぼるため場所を幕府直轄とし、同時に運上屋を「会所」と改め役人を置くようになりました。さらに文化2年(1805)ころ向かい側のモロラン(今の崎守町)に会所が移されましたが、その会所は、間口16間(1間=1.8m)、奥行き4間と、64坪もある大きな建物であり、新たに通行屋も設けられました。蝦夷地を直轄とすると、幕府は道路の開削も行い崎守は、蝦夷地警備における兵力移動の敏速化という軍事面と、奥地場所への交通の要路として、重要な役割を果たすようになり、明治5年(1872)札幌本道の開削までの約70年間、室蘭地方最大の部落を形作るまでに発展しました。当時の交通路は、伊達方面から崎守町仙海寺の坂(室蘭の語源となった坂)を下り、崎守町からペケレオタ(陣屋町)を通り、ここから山に入り、知利別を経由して鷲別に抜けましたが7つの山を越えなければならず「7段坂」と呼ばれる険しい道でした。 |
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外国船の日本近海出没がひんぱんになり、幕府は北辺警備のため、室蘭に出張陣屋を建てることになりました。 安政2年(1855)幕府は、南部藩に函館から幌別までの警備を命じ、勘定奉行の新渡戸十次郎(5千円札で有名な新渡戸稲蔵の父)が構築計画を担当しました。室蘭の警備は、オイナウシ(追直)に見張所を設置し、ポロシレト(崎守神社上)と対岸のエトモ岬に砲台場を設け、ペケレオタ(陣屋町)に出張陣屋を築き、各2門ずつの砲台から、一斉砲撃により三方から挟み撃ちで、港内に侵入しようとする外国船を追い払うという布陣でしたこのポロシレトに設置した大筒(大砲)を藩士18人が交代で試射したところ、目標の10町に対し、最も飛んだ弾が1町、ひどいのは目の前に落ちたという記録が残っています。出張陣屋は翌安政3年(1856)わずか半年ほどで完成し、背後に丘陵を背負い、二重の土塁をめぐらしています。陣屋跡に今も残る杉林は、当時植えられた'もので、約130年の歴史を今にしのばせてくれます。 陣屋には、常時350人ほどの兵や村夫で警備に当たっていましたが、外国船との戦闘は一度もなく、明治維新のとき新政府への引き渡しを拒んで、陣屋は焼き払われ、13年間室蘭を守り続けてきた藩士たちは、故郷の盛岡へ引き上げました。この陣屋跡は、昭和45年に平面復元工事を行っており、建物の東石や石だだみは当時のまま残されています。 |
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明治新政府が、北海道の開拓に当たって、首都を札幌に決めたのは、それなりの理由がありました。、幕末以来、函館は奉行所や裁判所の所在地として、また開港場として、行政・経済上の中心都市でした。しかし、北海道全土にわたって開拓を推し進めるためには、軍事的面からも、南端の函館では不適当なことから、北海道の中心部の札幌府に決定しました。しかし、無一文から出発した新政府は、ばく大な経費を必要とする開拓事業を全面的に実施することができなかったことから、分割支配(北海道を11カ国86郡に分割)による開拓方法をとることになりました。胆振国室蘭郡の支配を命じられたのは、旧角田藩主の石川邦光であり、この角田藩の人たちが室蘭の開拓の先駆者となりました。明治3年3月16日、故郷仙台の角田村をあとにした、藩主石川邦光の重臣、添田竜吉と弟の泉麟太郎が率いる第一陣の移住者44戸51人(男46人、女5人、家族ぐるみは4戸)が、第2の故郷となる北の国、室蘭に着いたのは、早春の風がまだ肌を突き刺す4月6日でした。入植した場所は、チマイベツ(石川町・香川町)に27戸、本輪西・幌萌・知利別に17戸で、一行は、とりあえず雨露をしのぐ程度の掘っ立て小屋を組んで身を伏せ・翌日には、長旅の疲れを癒(いや)す暇もなく、さっそく大地に鍬を振りおろしました。刀を鍬に変えての慣れない百姓仕事に加え、うっそうと生い茂った木と石混じりのやせた土地で手にできたマメは破れ、五体をさいなむ難作業に歯を食いしばっての忍耐の毎日が始まりました。重労働の毎日にもかかわらず、不運にも収穫皆無に等しい年があったりしたため、泉麟太郎は、さし当たっての窮状をなんとか切り抜けようと、元気な若者10人一を選んで札幌に出稼ぎに行ったりもしました。その日その日の生活を支えるため、苫小牧や日高に出かけて鹿を捕り、肉は食糧に皮は函館まで運んで売りさばいたりもしました。 事業としては、石川町や本輪西町で養蚕をしたり、現在の本輪西駅前付近で鋳物場を建て、日用家庭器具の製造も行っていました。最も成功した事業は、輪西氷と呼ばれたもので、現在のホームストア港北店裏あたりに,コィカクシ川から水を引き、貯水場を作り、夏はコイ・ヤマメ・ウナギを養殖し、12月からは水を凍結させ、大阪方面に出荷しましたが、良質であるため暑い関西では大へん重宝がられ好評を博しました。明治6年、13歳の旧藩主邦光の弟、石川光親が3戸の同志を伴って移住、さらに明治14年には、61戸211人が移住してきました。後に農地が狭いなどの理由から、泉麟太郎など7戸24人が夕張郡アノロに移り、現在の栗山町の前身を築きました。 ・胆振という地名の由来 「日本書記」によれば斉明天皇の代、阿部臣(オミ)が北征した時に、胆振(イフリサへ)、の願人を宴会に招待しました・古く新井白石が胆振とは北海道の勇払(イブツ)地域のことではないかと物の本に書いています。 明治初年、松浦武四郎が、北海道の国郡名について「噴火湾の山越内から沙流境までを一国にしたい。その中で、勇払は大場所でアイヌも多いから、中心地としたらよい」とし、その国名としては「日本書記の胆振に気が付いたので、“胆振"でいかがでしょうか」と北海道開拓使長官に建議したことから、胆振という国名ができました。(北海道大百科事典から) |
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明治5年の春、トキカラモイ(海岸町と緑町の境界付近〉に室蘭の夜明けを告げる建設のつち音が高らかに響き始まりました。道都札幌への道(函館〜森−<海路>−室蘭〜札幌)、札幌本道の築造工事が始まったのです。この道路は、マカダム式舗装(砂利敷)による長距離道路として、日本で最初に作られた車馬道でし丸(本州にも立派な道路がたくさんありましたが、一雨降る度にグチャグチャになる道路で、本格的な砂利敷道路ではありませんでした)開拓使の陸地測量兼道路築造長のワーフィールドは、このあたり一帯の地形を見渡せるホシケサンペ(測量山)の山頂に登って、三角測量の基点を定めて測量を行ったことから、後にこの山を測量山と呼ぶようになりました。工事は最初のうち180人前後で始められましたが、函館〜森の工事が終わった7月ころには総勢5082人と本格的な工事に入り・8月にはトキカラモイ〜鷲別の山道開削を終わり、9月には樽前まで進むスピード工事でした。工事に従事していた人たちは、外人教師の仮住居のほかは、開拓使の役人はもちろん、職工・人夫らがいくつかの組に分かれ、テント張りの掘っ立て小屋で生活をしていたため、病人が続出しました。 明治5年10月、開拓使は、トキカラモイ付近を「新室蘭」とし、室蘭村(崎守町〉を旧室蘭と改めました。現在の崎守町は、その後「元室蘭」と呼ばれましたが、地元住民は元の室蘭ではなく本当の室蘭だということから「本室蘭」に改め、現在でもこの地名が学校の名前に残っています。この新室蘭の発展と共に、会所が建てられて以来、約70年もの間、交通の要路として栄えた崎守町は、急速に衰えていくことになりました。開拓地の常として、ここで働く人々は、いずれも粗暴であり、普通のやり方では統率できないため、組頭は帯刀を許されており、中には、いつも日本刀を抜き身で持ったまま指揮にあたる者もいました。人夫などの労働者に対する規則は厳しく、印鑑を紛失すると賃金カット、病気をして無届けで欠勤すると5日分の賃金を半分に減らされるなど、苛酷なものでした。そして死亡者がでれば切り開かれた山上に葬られたため、そのそばの坂を「仏坂」と呼ぶようになりました。この名を忌み嫌って、昭和7年、現在のNHK付近に市役所があったことから「市役所通り」と改められましたが、今なお仏坂の名で呼ばれています・本道の工事は、10月に札幌本府の直前まで進みましたが、指導者のワーフィールドが酒乱のため解任されたのと、寒さのため工事が難行したこともあって、工事をいったん打ち切り、多くの人たちが新室蘭で越冬することになりました。このため、幕西は、酒と賭博に明け暮れた荒くれ者のけんかが絶えず、殺人事件が多発したため、幕西坂は人呼んで「人殺し坂」とも呼ばれたいました。札幌本道工事と並行して行われていたトキカラモィの桟橋は、長さ47m・幅2mの木造埠頭で、明治5年7月に完成しました・桟橋完成とともに、室蘭〜森の定期航路の第1船として就航したのは、開拓使の付属船「稲川丸」(15t、25馬力、乗員11人)で、この明治5年が、室蘭開港の年になちています。 |
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開拓使による北海道開拓10ヵ年計画は、明治14年で終わることになりますが、黒田清隆開拓長官は、開拓使の廃止を前に、北海道開拓事業の進行状況や民情をつぶさに見てもらうため、明治「天皇を北海道に迎え入れました。天皇は、明治14年8月30日小樽に入港、9月4日に室蘭に入りました。鷲別から室蘭までの約8qの道は、旧角田藩の移住者添田竜吉ら数百人が整備したもので、その時道路の地ならしに使った石のローラーは、現在も民俗資料館前庭に展示されています。天皇を乗せた車引きは、旧角田藩の移住者の中から選ばれた40人の若者が奉仕しましたが、この時指揮に当たった添田竜吉の弟、泉麟太郎は、天皇の卓に背を向けるのはおそれおおいと、後ろ向きに歩いて指揮をしたといいます。室蘭に入った明治天皇は、まずベシボッケの上(現在のみゆき町、潮見公園駐車場近くに大砲の弾のような形をした「明治天皇御野立所」の記念碑があります)の休所でお休みになり、午後5時ころ母恋小休所(現在の御傘山神社前)に着きました。そのころべシボッケにしても御傘山神社付近にしても、民家はほとんどなく、一望の中に波静かな水面に白鳥の舞う室蘭港が見られました。長旅の道中に、喉が渇いた天皇は、水を所望されましたが、ちょうど近くにこんこんと湧き出る清水があったので、これを天皇に差し上げたところ、ことのほか満足されました。これが後に、天沢泉と名付けられ、今も御傘山神社の一角に記念碑が残っています。また大正11年の町名改正のとき、御膳水にちなみ、このあたり一帯を御前水町と名付けました。その日は、山中旅館(室蘭駅前の階段を上り切った右側にあった)にお泊りになりましたが、ここからも港内が一望でき、アイヌの人たちは100隻あまりの小舟を出し、イルカを追いつめる実演などをして見せました。当時の室蘭には、132戸の住家しかなく、300人からの皇族や政府高官、あるいは天皇陛下を拝もうとする近在からの宿泊に、どの家でも3〜5人の泊り客があり、開港以来の重大事だったといいます。 |
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明治20年、当時の輪西村(蘭北・蘭東一帯)に、鳥取県51炉、愛媛県43戸、兵庫県16戸の計110戸、528人が室蘭屯田兵中隊の第1陣として移住してきました。屯田兵の移民の最大の問題は、土地の給与にありました。移住者の生計に最大の影響を与えるのは、その土地の土壌の良否であり、土地の肥えた所に入植できれば良いものの、条件の悪い所に入植した人たちは悲惨でした。屯田兵村の土地選定には、@軍事上の要地A開墾上の拠点B農耕適地C広大な面積が必要条件でしたが、室蘭の場合は、交通の要所として軍事上の観点を優先して選定したため、農耕適地としては最悪の条件下にあったにもかかわらず、入植しなければならず、屯田兵たちは大変な苦労をすることになりました。明治22年には第2陣として、福岡県60戸、佐賀県30戸、石川県20戸の計110戸581人が移住してきましたが、明治34年に解隊されたときには、わずか10数戸に減っており、その厳しさがうかがえます。室蘭屯田兵の中隊本部は、現在の中嶋神社の所に建てられました。当時この辺り一帯は低湿地帯で、ここだけが葦(あし、よし)原に浮かぶ中島のようだったことから、中島台と名付けたといわれています。室蘭に入植してきた屯田兵たちには、1戸あたり3千坪の給与地と17.5坪の兵屋が与えられ開墾に汗を流しました。朝4時に、中隊本部の中島台から起床ラッパが鳴り、すぐ掃除をして朝食をとり、それから作業にかかれのラッパが再び鳴りました。戸主は兵隊でもあるため、午前中は訓練で、中には3時半ころから農作業にとりかかる家もありました。しかし、湿地・荒れ地、さらに天候不良の中での重労働は大変なもので、入植後、半年もしないうちに逃亡する者も出てきました。 作物は、じゃがいも・大豆・小豆・粟・きびのような物で、稲作も知利別周辺で何度か試みていますが、ことごとく失敗しています。そのため、食卓は毎日じゃがいもを中心にした代用食ばかりで、ほかの住民から「いも屯田」と笑われたりもしました。楽しみは、日曜日の潮干狩りで、現在の新日鐵あたりの浜は、ずっと遠浅になっていてウニ・コンブ・アサリなどがいくらでも採れました。 中隊本部のあった中嶋神社の境内には、屯田兵記念碑のほか当時の火薬庫がそのまま残っています。屯田兵制度明治6年、明治政府が、@移住者の保護A国防上からの北辺警備B北海道の開拓C窮乏士族に対する授産のために採用された制度で、明治37年に廃止された。 屯田兵の義務は、@兵事訓練A開墾B警備C有事の際戦列に参加することですが、4月から9月までは、午前4時起床、午前6時から午後6時までの労働、10月から3月までは午前5時起床、午前7時から午後5時までの労働と、士族として育った者にとっては苦しい労働でした。 |
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明治5年に、札幌本道開削とともに室蘭〜森間の定期航路が開設されました。定期船は小型の台船であったため、しばしば欠航しましたが、明治18年この航路は、日本郵船会社に経営を引き継ぎ、室蘭丸(52t)が正確な発着時間の運行を行い、以前の悪評を解消しました。 しかし、森に上陸し、函館まで11里(44q)の陸路は、馬車で9時間もかかり非能率的だったため、郵船会社は明治26年、21年間続いた同航路(室蘭〜森航路は、明治37年再び開かれましたが、やがて長万部〜室蘭間の鉄道開通によってその役目を終えました)を廃止し、室蘭〜函館〜青森を結ぶ三港定期航路を新設しました。このとき、郵船の取り次ぎ店の指定に成功した酒屋の栗林五朔が、これをきっかけに、室蘭から海運業界に飛躍的な発展を遂げることになりました。 |
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昭和10年3月18日、室蘭市議会は「市営飛行場」の建設提案を可決しました。これは、帝国飛行協会の呼び掛けで、札幌〜東京の定期航空路の要衝としての役割を果たすためのものでした。 同年7月1日、八丁平の市有牧場内に、延長300m、幅115mの飛行場の造成に着工,9月30日、地ならしをしただけの粗末な滑走路が誕生しました。 しかし、1機も飛ばないうちに太平洋戦争に突入。今度は軍用飛行場として、市民の勤労奉仕による建設作業が始まりました。老人、主婦、旧制中学校の生徒も総動員しての作業で、昭和初期以前に生まれた人であれば、ほとんどの人が有事の際には、ここから勇ましい飛行機が飛び立つのを夢見ながら、重労働に耐えたのでしょう。昭和18年、飛行第63戦隊の「九七戦」の一部が室蘭防空のため、駐屯したことがありますが、もちろん、昭和20年7月14・15日の空襲・艦砲射撃のときには、この飛行場からは1機の飛行機も飛び立つことはありませんでした。 今は、区画整理事業で宅地化され、市内で一番新しい小学校も平成9年4月に開校しニュータウンとして生れ変わっています。 |
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明治25年、夕張鉄道が全通するとともに、北海道炭鉱鉄道会社が石炭積み出しのため、岩見沢〜室蘭(輪西)間に鉄道を敷設し、現在の新日鐵仲町第1門付近に室蘭停車場を開設して、一般旅客の取り扱いを開始すると同時に、イトツケレップ(現在の御崎町)に貨物専用駅を設置し、木造桟橋で、石炭の積み出しを開始しました。この年、室蘭が大きく飛躍する記念すべき年となり、さらに明治27年、室蘭港が特別輸出港に指定され、石炭・米・麦粉・硫黄に限って海外直輸出が出来るようになってからは、北炭が小樽港を国内向け石炭の供給地とし、太平洋の玄関口を占める室蘭港を外国向け石炭輸出港としたことにより、室蘭港は石炭積み出し港として飛躍的に発展し、小樽港とその地位が逆転するようになりました。 明治39年、鉄道が国有化され、鉄道院が明治44年、茶津(現在のフェリー埠頭)に石炭積み込み用の高架桟橋(高さは海面上平均18.6m、延長は水面部355m、陸上部218m)を完成させてからは、一昼夜に6,600tの石炭荷役が可能になり、大正3年から5年にかけて、第1次世界大戦の影響で石炭の集散は、さらに増加して最も盛んになりましたが、大戦終了後は、世界的な不況のあおりをうけて減少しました。 明治30年には、輪西から仏坂下まで線路を敷設、停車場を新設して「室蘭停車場」とし、従来の室蘭停車場は「輪西停車場」としました。その後、港の埋め立て工事の完成にともない、明治36年には現在の室蘭駅裏手に貨物専用駅が新設され、仏坂下の停車場は旅客専用駅となり、明治45年、現在の位置に室蘭駅を移転新築しました。 この室蘭駅は、多少の改造があったものの、札幌の時計台と同じ「寄せ棟造り」で、明治の面影を今に残す貴重な建物です。鉄道開設当初の室蘭側の終点が、イトツケレップ(御崎町)で止まったのは、明治26年、室蘭を軍港に指定した経過からも分かるように、現在の母恋や日本製鋼所付近が、軍事上の活用予定から許可されないためでした。また、イトツケレップと室蘭に分かれる御崎付近の分岐点に、菱形の転轍器が取り付けられたことから、この付近一帯を「ダイヤモンド」と呼ぶようになりました。北海道炭鉱鉄道会社は、鉄道の国有化にともない国に売却した資金で、明治40年、日本製鋼所を発足させ、室蘭に工場と本社、東京に出張所を置きました。(本社は大正4年に東京に移す)。さらに、北海道炭鉱鉄道会社は、明治42年に輪西製鐵場を建設し、自社の石炭を使用して、砂鉄と鉄鉱石との混合による日本最初の製鉄を開始しました。この輪西製鐵場は、輪西製鐵所、日本製鐵梶A富士製鐵鰍ネど何回かの変遷を重ねて、現在の新日本製鐵鰍ノなっています。 |
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第2次世界大戦(昭和6年の満州事変〜昭和16年の太平洋戦争〜昭和20年の終戦)の戦線拡大と共に、室蘭の軍需工場は重要であるため政府の管理下に置かれ、機密保持のため徹底的に管理されました。重兵器はもとより、銃弾などの消耗兵器と、それに要する鉄鋼は、質・量ともに戦力増強のかなめであり、製鐵・製鋼所は増産につぐ増産を続け、工場の機械は24時問うなり続け、主要な作業は昼夜二交替制て行われ、1日当たり12〜15時間労働を強制されました。日本製鋼所は、国内でも高度の技術陣を持ち、日本最大の巨大な1万tプレスが鍛えた鉄鋼は、戦艦陸奥や長門などの砲塔・砲身や巨大戦艦大和の装甲板となるなど、世界の四大民間兵器メーカーとして力を発揮していました。こうした中で、食糧増産や戦力増強などのため、市民の勤労動員が盛んに行われましたが、代表的なのは、八丁平の飛行場づくりで、軍の指導のもとに町内会に勤労奉仕が強制的に割り当てられ、やがて来るであろう本土決戦には、自分たちの汗でつくったこの飛行場から、勇敢なわが飛行機が敵機を迎え撃つことを夢に、男女を問わずほとんどの市民が、慣れない重労働に駆り出されました。 しかし、いざ空襲や艦砲射撃があったとき、期待の八丁平飛行場からは、一機の飛行機も飛び立たず、室蘭港を始め工場や市街地に集中攻撃が加えられました。一方、奴隷狩り同様の方法で強制連行された朝鮮人や中国人がおり、戦争は悲惨な過去を残すことにもなりました。朝鮮人の強制連行は、昭和14年から始まり昭和20年までに、約113万人が日本各地に連行され、敗戦時には、日本製鐵輪西製鐵所(現在の新日鐵)に2,248人の朝鮮人労働者がいたといわれ、苛酷な労働条件を強いられていました。また、中国人も同様で、北海道には15,000人、室蘭には昭和19年から20年にかけて1,855人が配置され、港湾荷役などの重労働につかせたうえ、食糧・衣服など待遇は劣悪を極めました。 |
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昭和20年7月14日の土曜日の夜明け、本道沖合にあったアメリカ軍の空母から、グラマンF6Fなどが次々と本道上空に飛び立ち、室蘭上空には30から40機が飛来し、午前と午後の2回にわたって船舶や埠頭・灯台・鉄道・市街地に銃爆撃が加えられました。港内や港外では20隻近くの船が沈められ、工場も大きな被害を受け、午後4時すぎに空襲警報がようやく解除され、長い1日がやっと終わりました。しかし、翌日の日曜日も朝から警戒警報と空襲警報がたて続けに鳴り響き、市民は防空壕などに避難しました。 午前9時30分、戦艦3隻・巡洋艦2隻・駆逐艦9隻による日本製鋼所室蘭製作所・日本製鐵輪西製鐵所の二大軍需工場にねらいをつけた、約1時間にわたる艦砲射撃の開始でした。艦砲射撃は、軍需工場ばかりでなく、市街地や社宅街にも撃ち込まれ、特に御前水や中島社宅街は目をおおうような惨状で、一瞬のうちに地獄と化した中島社宅街では、路上に死体がころがり、それも首・胴体・手足だけというように五体満足なものはほとんどありませんでした。砲撃は約1時間にわたり、3隻の戦艦の16インチ砲から合計860発の1トン砲弾が撃ち込まれました。壕の中で「今にもこの壕に命中するのでは………」と生きた心地もしないで恐怖に身を縮ませていた市民にとって、実に長い長い1時間でした。これらの攻撃のとき、市民は、室蘭防衛部隊からの反撃を今か今かと待っていましたが、あれほど精鋭を誇ったはずの陸軍の砲火は14日の空襲には応戦したものの、艦砲射撃の前にはなすすべもなく、ついに火を吹かずじまいでした。そして、市民の勤労奉仕で築かれた八丁平飛行場からはとうとう一機の飛行機も飛び立ちませんでした。この2日間の室蘭における被害は、戦後、経済安定部が発表したところによると14日は、死者6人、重傷者2人、15日は、死者387人、重傷者105人、行方不明者15人となっていますが、その人数の根拠となる資料がはっきりしていないことや、この数字には、軍関係者の数は含まれていないため、正確な死傷者数は分かっていません。 |
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終戦後の室蘭は、文字どおり火の消えたような状態でした。軍需工場は閉鎖、室蘭港内には空襲で撃沈された船があちこちに沈み、港内は機雷の危険があるとして封鎖されるなど、室蘭港は、まさに死の港となっていました。戦争で大きな痛手を受け、市民は苦しい日々が続きましたが、時の公選初代の熊谷綾雄市長を先頭に港の再開陳情を重ね、昭和22年に港の封鎖が解かれました。これを契機に沈滞ムードを一掃するため、室蘭商工会議所が主体となって、市・港湾関係・商工業者団体・報道機関などの協カを得て、海の記念日の7月20日を中心に第1回「復興港まつり」を1週間盛大に開催しました。これが今の港まつりの始まりです。室蘭市は、天然の良港を背景にいち早く平和産業に転換し、重工業地帯として、復興の道を歩みはじめ、昭和31年に富士セメント(現在の日鐵セメント)、翌年には、日本石油精製と大型企業が相次いで立地し、人口も終戦時の91,178人から昭和45年には162,059人まで急増しました。この間、昭和29年の日鋼争議、昭和40年のタンカー「ハイムバルド号」の火災などの事件があり・また、昭和48年と52年には、二度にわたるオイルショックによる経済不況、そして市内最大の企業である新日本製鐵(株)の高炉休止、次々と襲う合理化の波など、室蘭市民は多くの試練に立たされました。しかし、一方では、官民一体となった、地域づくりへの取り組みや、既存企業の新規事業への展開、三菱製鋼を始めとする30社にもおよぶ企業誘致の成果のほか、豊かな自然を生かした観光都市への脱皮など、数多くの面で室蘭活性化への道を歩み続けています。 |