”おねえちゃんは強いんだ”
三弦堂学園女子剣道部専用の格技場。
その窓の桟にあごを乗せるようにして、りむは剣道部員達の部活風景を眺めていた。
剣道部員:はーーーっ!面ーーーーーーっ!
剣道部員:小手ーーーーーーっ!!
ぱーん!ぱしーん!たーん!
裂帛の気合と鋭い竹刀の打撃音が格技場の中に響き渡る。
面を打ち込もうとした部員の竹刀を見事にさばくと、相対する部員はその一瞬の隙を
見逃さずに電光のような小手打ちを決めていた。
剣道の事などろくに判らないりむの目から見ても、その部員の剣の技量が並々ならないもの
である事がうかがえる。
礼をすませ、面を外す両部員。
今しがた見事な一本を決めた少女剣士の面の下から現れたのは……。
なこの温和な顔である。
平素の物静かで気弱ななこしか知らない者が見ていたら、さっきの剣士とのギャップに自分のほっぺたを
つねったに違いない、とりむは思う。
………なにせ自分ですら時々そうしたくなるのだから。
なこ:あなたは一撃を打ち込む瞬間ばかりを気にかけてしまって、打ち込んだ後に手元のガードががら空きになるわ。
最後の最後まで気をそらさない様に心がけないと駄目よ。
剣道部員:はっ、はいっ!
きびきびと後輩にアドバイスを与えるなこ。
剣道部副将としての彼女は、優しくも厳しい師範代なのだ。
りむ:(…………ほんとに竹刀を持ったおねえちゃんは別人だなあ……。)
そう、剣道をやっているときの姉は、いつも家でみるぼややんとした姿とは別の存在だ。
これだけ強いのならその自信がもう少し日常に反映されそうのものだが、普段の彼女は
相変わらずの気弱で男性が苦手で天然ボケのキャラだ。
そんな闘争心という単語とは全く無縁そうななこが何故剣道をやっているのか?
彼女と知り合った者が一様に抱く疑問だ。
そして、そう問われるとなこは決まって困ったような笑みを浮かべて
なこ:自分を磨いて鍛えるのが武道の本懐なんですけど……まだまだ私は駄目ですね。
と、答えるのだ。
しかし、りむは知っている。
なぜ姉が剣道を始めたかを。
なぜ強くなりたいかを。
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もう5、6年も前になるだろうか。
なこもりむもまだそろって小学生だった頃だ。
お母さんに夕食の食材を買ってくるように頼まれて、二人でスーパーに向かう途中の公園で
金目当ての不良高校生の集団に絡まれたのだ。
不良:ホラ!さっさと金出せっつってんだよ!
不良:いてー目にあわねえうちに言うとおりにした方がいいぜガキども。
りむ:……あ……う……お、おねえちゃあん………。
なこ:………り、りむ。
普段は勝気なりむだが、不良達の剥き出しの悪意と強暴なオーラの前ではすっかり萎縮してしまい、
べそをかきながら姉にすがり付くしかなかった。
すがり付いている姉の体も恐怖で小刻みに震えているのが判る。
りむ:(……た……たすけてぇ………誰かたすけてぇ!)
不良:いつまでも泣いてんじゃねえよ!うぜぇっつってんだろ
ドスッ!!!
りむ:あうっ!!!
なこ:りむ!
泣きじゃくるりむに業を煮やした不良がりむをつきとばした。
地面に転がるりむ!
さほど痛くは無かったが、ついに暴力を振るわれたショックにりむの心は恐怖感で押しつぶされそうになっていた。
その時だ。
バシィッ!!!
不良:いてぇっ!!
ぎょっとしてりむ顔をあげるとそこには……。
なんと地面に落ちていた木の枝を構えたなこが、不良と自分の間に割って入っていたのだ!
なこ:……り、り……りむにら、乱暴な事をしないで!……ゆ、ゆ、ゆ、許しませんよ!
震える声で、しかしれっきとした意志を込めてなこは叫んでいた。
りむ:……お……お姉ちゃん………。
なこの全身は小刻みに震えている。
手に持った木の枝も、体の震えが伝わってまるでオーケストラの指揮棒の様に振れている。
しかし、そんな有様でもなこは不良達をにらみ付けたままりむの前から一歩も動こうとしなかった。
不良:このガキ……!
不良:ふざけやがって!。
なこ:……あ、……あなた達なんか!……こ、こわくありません!
不良達が一斉に殺気立つ。
だがなこは退かなかった。
一歩も退こうとはしなかった。
りむは、半ば呆然と姉の背中を見つめ続けた………。
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りむ:(結局、あの謎の人が助けてくれたんだけどね………。)
そう、まさに不良達が二人に襲いかかろうとした瞬間、一人の青年が颶風のごとく現れて不良達を
叩きのめしてしまったのだ。
……いや、青年ではなく、自分たちと同じくらいの年齢の少年だった様な気も、枯れ木のような老人だった様な
気もする……。
何度思い返しても「彼」の姿と印象ははっきりしないのだ。
余りに一瞬の出来事だった。
舞うような動きで「彼」が動くたびに不良が一人、また一人と苦鳴の声を上げて倒れて行く光景は、何かの冗談
の様にすら思えた。
最後の不良がドサリと地面に倒れる音にりむがはっと我に帰った瞬間。
「彼」の姿は消えていた。
見まわしても立ち去る後姿はおろか、足音すら聞こえなかった。
無様に転がる下衆どもの姿が無かったら、それこそ夢だったと思ったかも知れない。
影も形も、とはこの事だ、と、りむは先ほどの恐怖も忘れていっそ呆れかえっていた。
ふと、自分の傍らに夕日で長く延びていた影が突然短くなるのを見て、りむは影の主に目を向けた。
木の枝を握ったままへたりこんだ姉に……。
……未だに「彼」が何者だったのかは謎のままだ。
りむ:(あの次の日から、お姉ちゃんは剣道の道場に通い始めたんだ。)
自分たちを助けてくれた人物に影響されたのか、りむを守るに足る力がいると思ったのか、はたまた恐怖に
打ち勝つ力が欲しいと思ったのか。
なこはその理由を決して語ろうとはしない。
と、窓から格技場を覗くりむの姿にようやくなこが気づいた様だ。
なこ:あら、りむ?どうしたの?
剣道部の見学なんてらしくないじゃない?
りむ:えへへ、お家のカギ忘れてきちゃって……。
お母さん今日はパートの日で帰るの遅いのコロっと……あはははは。
なこ:まあ、それで私のことを待ってたの?
しょうがないわねえ。
まあ部活ももう終わりだから、片付けとシャワー浴び終わるまでもうちょっと待っててちょうだい。
りむ:はあい。
おねえちゃんが剣道をやめるのはどんな時かな?
あたしを守る必要が無くなった時かな?
それとも自分を守ってくれる人が現れた時かな?
もうハマっちゃっておばあちゃんになるまでやめないかもしんないな。
そんな事を漠然と考えながら、姉が出てくるまでりむは格技場の窓にぶら下がっていた。