山陰遠征 その4

平成15年9月20日〜23日


○9月23日(火)

朝方まで雨。足場が悪いが、ここまで来たのだからと朝飯前の一城。


熊野城


藪に埋もれていた看板、本丸で万歳、登り口付近




予め地図と大系の記事とで大体の登り口の見当を付けられたから良いものの、看板も何も無いので判りにくい(後でよく調べたら、小さな看板が朽ちて落ちて埋もれていた)。要害山の西の谷筋から尾根まで登る。途中、屋敷跡か田んぼ跡かわからない石垣が幾つか残っている。尾根までは沢で足場も悪かったが、尾根に取り付いてからは足場もよくなる。比高150m程。
頂上は一面熊笹だらけで歩くのも辛い。良く探すと、笹に埋もれて立派な看板と倒れた石碑とが見つかる。熊笹を切り払えば土塁等の遺構も残っているのだろうが、それ以上は何も出来なかった。
熊野氏の城。尼子時代の出雲十旗の一つで、富田城防衛の為の重要拠点であった。永禄6年(1563年)に毛利氏に攻められたときには防戦に成功。しかし永禄9年に富田城が開城すると、熊野城も毛利氏に降った。


宿に戻って朝食。準備をして出発。熊野城をわき目に見ながら、県道53号線を南東へ。



三笠山(牛尾)城


三の郭脇の石垣、一の郭のW字の段差、二の郭




南側の神社に看板はあったものの、登り口の表示が無い。仕方が無いので農作業に出向く途中の老夫婦に尋ねた所、親切にも教えてもらえた。三笠山の南側の谷筋を少し上って、小さな橋を渡った先に登り口の表示が出ている。
鉄塔に取り付く急な七曲道を登ると、後は比較的なだらかに三の郭、二の郭、一の郭と連なっている(三の郭はただの尾根道っぽい気もするが敢えて三の郭と呼ぼう)。一の郭はW字の段差があって面白い上に、眺めも良い。今、こうして地図を見ていると、一の郭の北北東部と、三の郭の西側から神社にかけての尾根に遺構があってもおかしくない地形をしている事に気がついたが、当時は時間も圧していて、そんな探検をしている余裕は無かった。
牛尾氏の城。牛尾氏は室町時代から出雲守護京極氏に仕えていたが、尼子氏が台頭してからは尼子氏に仕えた。尼子十旗の一つ。元亀元年(1570年)に毛利氏によって攻め落とされた。


県道を元来た方向に戻り、国道432号線で広瀬町へ渡る。


新宮党屋敷


遠景、神社、神社その2




富田城の一つ北の谷筋にある。谷の入り口にある看板がいい加減で、狭い道を右往左往させられる。また車を停めるスペースは殆ど無いので、あまり大人数で来ないほうが正解である。
台地があり、看板と幟が建っているだけである。これも一城と言えば一城だが、寂しいものがある。
尼子経久の弟である国久、その息子誠久・敬久の父子らは三千騎の手勢を持ち、新宮党と呼ばれていた。しかし毛利元就の謀略によって謀反の噂を立てられ、天文23年(1554年)に尼子晴久によって一族は誅殺されてしまう。この際に辛うじて生き残ったのが、後に山中鹿之助と尼子氏再興を目指す尼子勝久である。



富田(月山)城


三の丸の石垣、花の壇の復元された建屋、山中御殿付近




本来は麓の道の駅に車を停めてから、徒歩で登るべきなのだろうが、4日目で疲労も溜まっていたので、山中御殿のすぐ下まで車で寄せてから登る。窪谷さん・薬田さんコンビの話によると、10年前とは比べ物にならないくらいに良く整備されているとの事。全ての遺構を回りきる事はできないので、本丸、二の丸、三の丸、山中御殿、花の壇辺りを回る。流石に名城だけあり見ごたえはあったが、手を入れすぎているような感も無いではない。
富田の地は古くからの交通の要衝で、古代から軍事拠点が置かれていた。鎌倉時代に入ってからは佐々木氏が出雲守護となり、富田に館を構えた。一時は山名氏に滅ぼされるものの、明徳の乱(1391年)後には京極佐々木高詮が出雲守護となり、守護代として尼子持久が富田城に居城した。その後三代目の経久の時に勢力拡大が仇となって守護代を罷免されるが、逆に京極氏を追い落とし戦国大名になる。それから永禄9年(1566年)に尼子義久が毛利元就と和睦するまで、尼子氏の本拠として栄えた。尼子氏滅亡後は天野隆重、後には吉川元春・広家を城代として置いた。関が原の戦いの後には堀尾吉晴が出雲隠岐24万石で入城し、慶長16年(1611年)に松江城が完成し移った後は廃城となった。


富田城で一応の区切りを付け、関東へ帰る3人を送る為に姫路へと向かう。国道9号線で米子まで出て、米子道を南下して中国自動車道へ。途中、SAで昼食を摂っての移動だったのだが、渋滞も無く案外と早く山崎まで出たので、行きがけの駄賃として前回の播磨遠征で取りこぼした林田陣屋を取りに行く。


林田陣屋






半分は神社、半分は植物園になっている。石垣が残っている他は何も無い。



大急ぎで姫路市街に突っ込み、土産物をどうにか選ぶ事ができるくらいのギリギリの時間で駅に到着。こうして4日間の長い遠征も無事に幕を閉じたのであった。



○総括

繰り返し言うが、山陰は交通の便が不便である。しかし、そこにある城も、温泉も、飯も、それなりに良いものが揃っていた。開発が遅れている為なのかもしれない。
ともかく次は、出雲・石見の尼子氏遠征である。ここなら、会社を辞めてからでも大丈夫だ(笑)。


戦果
	攻撃対象	30城

	うち 棄権	2城

         麓のみ(鳥取)1城

			27城	攻略



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