信州(諏訪・伊那)攻略記 3日目

平成14年12月29日



午前5時半に起床。午前6時に出発、と言うことだったが、出発に手間取って、20分頃出る。

当初の予定だと、まず日の出と共に神の峰に登って、それから知久平だったのだが、路面凍結を心配した進言を重ねた結果、まず知久平で様子を見て、それから神の峰に登ろうと言う事になる。冬季の運転はほとんどした事が無いので、凍結した坂道を走るのは、いくらスタッドレス&4WDとは言え勘弁してもらいたい。

知久平城


左:主郭跡、右:北西の先端部



飯田市街から国道256号線を南下。天竜川を渡り、下久堅小学校の東の路地を左折(北上)。幼稚園だか保育園のある場所に車を(無断で)置かせてもらう。小学校から南東の神社の辺りまで城域だったものの、現在では遺構のかけらすら無い。
保育園の脇にある畑に土塁跡があり、ここから畑と民家の間に、堀や土塁が点在している。また、主郭の天守台跡と思われる土盛に、城の碑が建っている。参考にした城の本には主郭の南にあった馬出について云々書かれているが、これといったハッキリとした遺構は残っていなかった。
この知久平城は、徳川家康が信濃を領有していた時代の城で、菅沼定利によって築かれたものである。


国道256号線を更に南下。途中何箇所か狭いところもあったが、工事が進んで道路事情も良くなっていた。下平の集落まで進み、そこから久堅神社のある山頂を目指す。


神の峰城


左:出郭北から北西を望む、右:主郭から東を見下ろす



細い山道に入って5分ほどで、城のすぐ下まで出る。怪しげな民宿があるので、その脇を上っていくと神社のすぐ脇まで登ることが出来る。
現在は主郭はテレビの中継所、他も神社や展望台等になり、土塁や堀切といった遺構はあまり見られない。ただ展望台からの眺めは良く、飯田市街が一望できる。
南伊那の国人領主、知久氏の居城である。文献から、天文2年(1533年)頃にはすでに存在していたようで、天文23年の伊那攻略の際に落城したものと思われる。


来た道を再び飯田市街へと戻る。


鈴岡城


左:二の郭、右:主郭西方の堀


上が松尾城、下が鈴岡城

飯田線の毛賀駅と駄科駅の中間、毛賀沢川を挟んで、南北に鈴岡城と松尾城とがある。双方とも公園化しているが、鈴岡城の方が遺構の残有率が高く、また北西に抜ける比較的大きな県道の脇から入る事が出来るので分かりやすい。
主郭は公園だが、二の郭の殆どは果樹園(?)になっている。ただ疎らなので歩きやすい。
すぐ北の松尾城と同様に小笠原氏の居城で、室町時代に小笠原宗政が築いたとされている。小笠原氏は深志、松尾、鈴岡の三派に分かれて内部抗争を繰り返したが、武田氏の伊那攻略の際に鈴岡の小笠原信定は深志の小笠原氏と組んで武田方についた松岡の小笠原氏と戦い、敗れて京都に逃れている。その後に松尾城の支城とされたと言われているが、松尾の小笠原氏が武蔵本庄に移封した際に廃城になったようである。


谷を渡って直接に松尾城に向かおうかとも考えたが、谷が深い上に道も無いので諦める。一度国道まで出てぐるっと回り込み、松尾城に向かう。


松尾城


左:主郭脇の看板にて、右:本城の北にある展望台

松尾小笠原氏の本城。明応2年(1493年)頃、松尾城の小笠原定基は鈴岡城主で信濃国守護、小笠原惣領職だった小笠原政秀を倒したものの、深志小笠原氏と下條氏の連合軍に敗れ、甲斐武田氏の元に逃れている。しかし天文23年に武田晴信が下伊那を掌握した際、小笠原信貴によって松尾小笠原氏が再興された。
武田氏滅亡の後には織田信長に、本能寺の変の後には徳川家康に従い、旧領を安堵されたが、家康の関東への国替えの際に小笠原氏も武蔵本庄へ移され、松尾城も廃城となった。

東西500mにも及ぶ広大な城域を誇っていたが、現在では二の郭と主郭が公園として残っている以外は、全て住宅地になってしまっている。主郭周りの堀が残っているだけで、土塁等は余り見られない。小さいながらも鈴岡城の方がメリハリがあって見ていて楽しい。


国道151号線を北へ向かい、元善光寺の東、中谷集落へ。


坂牧城(坂巻城)


左:東側から望む、右、北東の空堀



窪谷さんの地図に載っていた城シリーズ。何も無いかと思ったら、しっかりと看板が立てられていた。地図に載るだけある。
現在では全域が畑になっており、遺構は北東にある堀以外には余り見られない。主郭と見られる郭の中央には古墳も残っている。
坂牧城は、松岡城(後述)の支城の一つで、坂牧氏の居城であった。松岡小笠原氏の武蔵本庄への移封の際に同じく廃城になったものと思われる。


元善光寺の西側へと戻る。


上野南城


二重馬出し付近



耕雲寺から小学校にかけての場所に上野北城、麻績神社の裏山に上野南城があるのだが、上野北城の方は小学校建設で遺構の殆どが無くなってしまったらしい。
南城も登り口らしきものが全然見つからず、20分弱探し回って漸く北を走る新道の陸橋傍から南に入る道を発見した。しかし案内が書かれていないだけあって荒れており、主郭とそこへ向かう途中にあった二重馬出ししか見ることが出来なかった。
座光寺氏の居城で、北城が本城、南城は遺構から見るに戦国末期に築かれた出城のようなものではなかったかと、物の本には書かれている。


新道を北東へ進む。

松岡城


左:主郭と堀、右:主郭手前の堀と土塁



上野南城から北東へ1.5kmほどにある。松源寺のある五の郭から、南東へ5つの郭が連なっており、堀や土塁など遺構も良く残っている。またこの城の谷を隔てて南西の尾根にも城跡があったが、時間が無いので行けなかった。
松岡氏の居城。松岡氏は武田氏、織田氏、徳川氏と、その時々の支配者に従ったものの徳川時代に改易され、その時に松岡城も廃城になったものと思われる。


新道を更に北上。

丸山城


窪谷さんの地図に載っていた城シリーズ。何度かのアタックの結果、城の有る場所はどうにか突き止められたものの、アプローチには失敗。結局時間切れで諦める事に。案内等一切無いので行っても藪ばかりかもしれなかったが、敗退は悔しいものである。


国道151号線を東に横断し、天竜川沿いにある台城公園へ。



大島城


左:主郭西側の大堀切、右:西の入り口付近の馬出しの三日月堀



公園化に伴い多少の手入れがされたものの、比較的良く遺構が残っている。特に入り口付近の大きな三日月堀は素晴らしい。
起源はよく分かっていないが、武田氏の伊那攻略後、秋山信友によって大幅に改修されている。織田氏の伊那侵攻の際には上伊那の防衛拠点となるも、戦わずして落城。その後、廃城になったものと思われる。


更に国道151号線を北上。飯田線上片桐駅と国道151号線の間に挟まれた場所にある瑞応寺へと向かう。
船山城


左:神社脇の石碑、右:二の郭から主郭を望む



瑞応寺の東にある、神社から東の河岸段丘部分が船山城である。三の郭は二の郭は神社と畑で空堀らしきものが確認できたが、主郭から先は林になっており、遺構の有無は良くわからなかった。
片切氏の居城と考えられるが、船山城の名前そのものが文献に出てこないので詳細は不明である。


昼過ぎになったので、ここまでで攻城戦を切り上げて中央高速道路に乗るべく、松川ICへと向かう。途中で名子城か何かの案内板を見つけてしまうが、電車の時間が押しているので諦めて高速へ上がる。
渋滞も無く1時間ほどで諏訪に到着。上諏訪駅でレンタカーを返却し、一足先に中央線経由で名古屋へ帰省する榊さんを駅で見送った後、3人で遅い昼飯を食べる。時間さえあれば福寿美で蕎麦とソースカツ丼だったのにと悔やむが、今回は目的が違うので仕方ない。
食事後、解散。砧への土産物を物色し、特急あずさに乗って上京。今晩は砧に泊めて貰い、翌日の大きな戦いに立ち向かわなければならないのだ。





総括

懸念されていた諏訪盆地の積雪も、写真撮影に悪影響を与えはしたものの、その為に攻城を断念するまでには至らなかった。また後半の伊那地方では、殆どの城が河岸段丘上にあるために寄せ易く、かなりの数を稼ぐ事もできた。これだったら初めから伊那に絞って回っていれば、もっと数が稼げたのではと言われるかもしれないのだが、実際に行ってみると規模が大きいものの如何せん大味で、河岸段丘の連郭城ばかり攻めているといい加減に飽きてしまう。
結果からすると、前半にちょっと無理をしてでも、諏訪盆地を絡めて、攻める城にアクセントを加えていたのが良かったと言える。
立案者の窪谷さんにその辺の話を伺ってみたのだが、実は諏訪を絡めたのは東京からの交通の都合上からで、初めは伊那だけを攻める予定だったらしい。しかし伊那は東京からの交通の便が非常に悪く、だったら比較的利便の良い諏訪盆地を基点にしてレンタカーに乗り換えて伊那に入る事にしよう。そして折角行くのだから、ついでに諏訪でも幾つか城を落としてしまえ。と、そういうものだったらしい。
…まあ、ともかく。結果オーライと言う事で。


戦果
	攻撃対象	26 城

	うち 棄権	1 城

			25 城	攻略



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