琉球グスク遠征 その3
平成15年12月26日〜28日
○12月28日
午前6時に起床。6時半からホテルの朝食バイキングに。
荷物をまとめて車に乗り込み、7時半に出発。
伊祖城
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左:石垣? 右:最高所にて
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現在は公園と神社になっている。沖縄戦での破壊により、石垣は一部にしか残っていない。
英祖王統発祥の地と言われているが、詳細は不明。伊祖→浦添→首里という流れなのか。
浦添城
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左:北斜面にある石垣、右:石垣?
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左:石垣? 右:ハナジリー(最南端、三角点の位置)から北側の展望
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地図
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首里以前の中山の首都だったと言われており、城の北側には英祖王の墓(ようどれ)もある。名前も「津々浦々を治める」から来ているらしい。城域の広さからみても、首都であった可能性はある。
沖縄戦の激戦地であった為か、それとも首里城に石材を運んでしまったせいか、石垣は殆ど残っていない。公園の看板にはそれっぽく石垣が描かれているものの、確認できたのは2、3箇所だけだった。
大里城
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左:散乱する石、右:展望台から北方への眺め
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左:拝所、右:公園脇の石碑
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囲泉(ちちんがー)の石段と石垣
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左上:大里城、右下:ミーグスク
詳細不明(笑)。こんなんばっかりだ。
後に中山王となる佐敷城の尚巴志が、初めて攻略した城と言われている。首里に首都が移ってからも、15世紀末までは旧王城として存続していたらしい。
城域は地図破線で示した広大な部分であったと推定されているが、発掘等は行われておらず、実際のところは不明である。おまけに沖縄戦での破壊もあり、囲泉や拝所の石垣を除いては、それらしい遺構も見られない。
ミーグスク
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左:展望台、右:展望台からの眺め
大里城の西にある。大里城の出城、もしくは大里城の一部であった可能性があるが、こちらも詳細不明。石垣らしい物は見られなかった。
佐敷城
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左:神社正面の看板、右:神社裏の推定石垣跡
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琉球王朝第一尚氏の祖、尚思紹・尚巴志の居城として知られる。
石垣は見られないが、城域は神社として整備されて見易くなっている。
知念城
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左:表門、右:新城北側の門(内側から)
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左:新城北側の門(北側から)、右:街道脇の屋敷(集落?)跡
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左:旧街道、右:全景
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旧街道脇の新城と、その東にある古城の2箇所から成る。古城へ登る道(やたら細い)を見つけて少し分け入ってみたものの、雑木が生い茂ってハブでも出そうだったので、すぐに戻る(写真を撮り忘れる)。ただ、ぱっと見、石垣などは残っていたようだった。
新城の方は、明治時代頃まで礼拝場等として使用されていた為に、遺構が良く残っている。ただ、写真で見るイメージと違い、案外と狭い。
城の直ぐ北側には旧街道が東西に走り、その脇には明治時代まで知念部落があったそうである。
ミドリグスク(ミントングスク?)
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左:石段、右:全景
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カーナビに城マークが入っていたので、立ち寄ってみる。
現在は民家の裏庭で、声をかけて入らないと不法侵入になってしまうので注意。頂上は拝所になっており、石垣らしきものは見えないが、拝所へと登る石段が残っている。
大系にあるミントングスクの事かと思われるが(裏の県別地図だと全然別の場所に記載されているが、字は合っている)、カーナビには「ミドリグスク」と書かれていたような気がする。カーナビにもミントングスクと書かれていたら、大系のコピーも手元に有ったのだし、記憶も定かだっただろうと思ううので、別物かもしれないし、カーナビが間違っているのかもしれない。ようわからん。
ミントングスクだとすれば、伝説上の沖縄開闢の人、アマミキヨが住んだ城といわれていることになる。
垣花城
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左:地図、右:東側の門跡
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左:南西の郭へと入る門跡、右:南西の郭の北西部にある拝所
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左:南東部からの眺め、右:南側の石垣
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詳細不明。大城按司の一族の城ともいわれているが判らない。
長細い南西部の郭と、斜面で低くなっている北東部の郭で構成されている。南西部の郭は遺構が良く残っているが、北東部にはあまり残っていない。
全体的に木が生茂って確認し難いが、石垣は良く残っている。木を伐採して芝生を植えてもらえると、かなり見ごたえのある遺跡になる筈である。
玉城城
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左:北面に残る高石垣、右:門跡(内側から)
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左:北東方向の眺め、右:郭の周囲の石垣
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左:門跡(階段から)、中:北面の高石垣、右:石が敷かれた登山道
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アマミキヨが築いたといわれているが、詳細は不明。
比高40m程の小山に3つの郭があるが、一の郭以外の石垣は崩れてしまって殆ど残っていない。
有名なアーチ型の門跡や、数メートルの高さの北面の石垣の他に、石段や石敷きの登山道が残っている。比高が低い割に周りに障害物が無いので、頂上からの眺めが良い。
糸数城(2回目)
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左:石垣(東面、外から)、右:同左
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左:同上、右:石垣(東面、南から北向き)
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左:石垣(東面、内側)、右:同左
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左中右:北東部の出っ張り部分
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左:北東部出っ張り部分から北門、右:北門付近から北東部の出っ張り部
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以前に来た時には、折角の石垣も半分以上が木や草に覆われて所々で崩壊していたのだが、それから1年半の間に整備が行われ、現存する石垣をほぼ網羅できるようになっていた。今回まわった南部の城では、最も見栄えがある城であった。
玉城按司の三男によって築かれたと伝えられている。出土物から14世紀頃の集落的性質を持ち、集落から発達して成立したものとみられている。
大城
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左:碑の傍からの展望、右:石垣の基部?
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山頂まで車道が付いて碑も建てられているが、山頂部のほとんどは養鶏場になっており、残りの部分も木や草が生茂って遺構を確認する事は出来なかった。当然に眺めも悪い。
玉城按司の次男によって築かれたと伝えられている。糸数城と同様に、出土物から14世紀頃の集落的性質を持ち、集落から発達して成立したものとみられている。
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左:アヒルそば(800円?)、右:アヒル汁定食(1000円)
一息ついたので、昼飯に大里村仲間交差点付近にある「まんぷく食堂」という店に入る。午後1時過ぎにも関わらず、客が結構いたので売れているのだろう。
名物は牛汁定食(700円)なのだが、日和ってアヒル汁定食にする。牛汁を注文した薬田さんに味見させていただいたのだが、内臓肉も多く入り臭みもきつくて素人には向かない味だった。アヒル汁の方は、さすがに鳥なのでそれほどくどくは無かったが、汁にしろ飯にしろ量が多すぎたので、平らげるまでが大変だった。窪谷さんが注文したアヒルそばは、アヒル汁に沖縄そばの麺が入っている。これくらいが丁度良かった。
平良城(失敗)
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那覇市内へ移動する途中、数を拾いに行くも失敗。
初めは西側の高台を目指したが登り道は無く、東側の高台に向かったが、こちらは道路工事中で回り込めず。寄せる事すら出来なかったので、本当にここにあったのかは不明。
詳細も不明
豊見城(失敗)
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こちらも数を拾いに行ったのだが失敗。
有料の公園内にあるのだが、公園そのものが廃園になっており、入れず。遺構そのものは沖縄戦で破壊されて何も残っていないが、それでも苦労せずに落とせる城の一つだったので、残念である。
三重城
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左:西側、右:水門跡(石橋跡??)
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左:東側の石垣、右:同左のアップ
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那覇港のフェリー乗り場の西側の、ホテルの裏にある。
石垣が所々に残るが、積み方を見ると最近になっていい加減に積み直された部分が多そうである。
南にあった屋良座森城(対岸。現在は米軍の関連施設になり、遺構は残っていないし、立ち入りも出来ない)と対を成して那覇港を守る砲台として、16世紀後半に築かれた。石橋3つで繋がれていたために三重グスクと呼ばれていた。
御物城(岸から)
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現在は入れないが、折角ここまで北ので遠景を撮影する。
時間が中途半端に余り、といって城を見るには日が傾きすぎていたので、空港から比較的近い場所にある旧海軍司令部跡を訪ねる。
1年半前と入り口が変わっていた。売店で沖縄戦の劇画を購入する。(未だ読んでいない)
レンタカーを返却して、送迎バスで空港内に移動。
2時間ほど時間が余ったので、本を読んで暇を潰す。夕食に、ターミナルビル4Fの琉球村で宮古そばを食べたとの話(by窪谷さん)だが、自分は何を食べたのか記憶が無い。腹を壊していてモズクか何かを食べていたような気がする。
10時半頃羽田着。窪谷さん、薬田さんと別れ、今晩お世話になるSさんの家に移動開始。荷物を抱えて走り、バスにギリギリ間に合う。
Sさん宅で、久しぶりにMさん、Oさん、それにYにFと会って、飲む。
翌日はお昼をご馳走になり、それから西船橋と秋葉原で買い物をして帰る。買い物に時間が掛かりすぎて、残った3回分の18切符を売却出来ず。新幹線で神戸に帰る。
総評
2日半しか時間が無かったが、レンタカーで集中してまわったので、数をこなせた。有名な城は殆どまわれたので、当分沖縄本島にグスク目当てに行く必要は無いだろう。
しかし大系に載っている他にも無数の無名のグスクが残っているそうで、これからの発掘・研究に期待したい。
戦果
攻撃対象 33城
うち 棄権 5城
既攻 2城
26城 攻略
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